書妖談義トト・カルチャーの秘密の部屋

 

 

「ぼく本当は、庭つくりの仕事だけやって暮らしたいんですよ、本なんかにかかずらわらないで」と友人は言った。「よくあるでしょう、「膨大な蔵書がかれの庭だった」とかそういうの、ぼくは本は好きだけれど、それほどの愛書家ではないんですよ、ビブリオマニアと呼ばれるようなね。だけど仕事柄やっぱり庭や造園に関係ある本は読むじゃないですか、あれもこれもって読んでいくと、結局どれもこれも関係あるように思えてしまうんですよね。うさぎが時計もって駆ける庭やなんか、それはもう言わずもがなで、庭なんか全然でてこなくても、例えば花の挿絵の配置の具合とか、余白のとりかたとか、活字の並びぐあいとか、要するに字や絵の詰まってるページはそれだけで花壇なんですね。で、その中に人がいて何かしゃべってたりするでしょう。ああいい庭だ、こんな庭をつくりたいなと思うのは、つまりそこに人がいるその居かたなんですよ。本も庭も、結局は人がそこに居るためのものでしょう? 札を立てて花の名前や原産地を紹介したりもするけれども、それが役に立つといいと思うけれど、その役に立ち方も含めて、結局は人がきて、しっくり落ちついて時間を忘れて居ついちゃいたくなるような庭がつくりたいんですよ、ね。そんなふうにしっくり人がいる本があるじゃないですか……」
   友人は終始どこそこ伏目がちだったけれども、穏やかな顔をしていた。もやしの尻尾とりという作業は、二人でやるのによい。冬なら炬燵で、夏なら縁側でというのが無理ならせめて夕映えの陽のさしこむ床に敷いた新聞紙をはさんで、互いに目線を伏せ合ってこもごもに手を伸ばしながら二人でやるのがよい。そこには春先に野で摘んだつくしの袴とりの時のような晴れやかさはないけれども、代わりにごく親密な日常的なしめやかさ、とても即物的な敬虔さがある。尻尾など別にとらなくともよいのだけれども、面倒で手間がかかるからといって、もやしの尻尾とりという行為が世の中に絶えるのは好ましくない。それは、人が殊更な意味もなく向かい合って、あるいはやや遠慮がちに斜向かいに向かい合って座る美しい居かたのひとつが世界から失われることだからだ。あたかも縁台で将棋を指すように、どっちがたくさん取るかなどとそれは真剣に競争したりするのだが、勝敗はやがて、新聞紙の中央にかさこそと屑を集める音がかもす端的な終了感のうちに、すみやかに霧消する。それは言ってみれば雪が降るような勝負で、いつ上がるとも知れないけれどもいつか不意に上がると、尻尾をとり終えたもやしは、さっそく煮て食べてしまう予定だ。
   「ぼく少しだけドイツ語やったんですよ」淡々と手を動かしながら友人は続けた。「大学二年かな、やっと少し読めるようになったばかりのとき、いきなり何だか難しいエッセイを読まされてね。Ich bin. って文で始まってるんですけど、「ぼくは、いる」とかそんな意味ですね。たったそれだけの単純な文にどれだけ複雑怪奇な意味がこめられているやらちっともわからなかったし今でもわからないんだけど、そのくせ、最初に読んだとき、妙な話ですけど何だかとてつもなく、ものすごく美しく愛しく見えたんですよ、この Ich bin. が。続く文章はもう忘れちゃった。たぶんそれは、活字の書体や、字の縁の細かいささくれかたや、字間語間の空きかた、ピリオドの付き具合やそんなものまで一切を含めて、この上なくきらきらして見えたんだと思うんですよ。燭台の縁に積もった埃が蝋燭の灯のしたで無数の色彩にきらめくみたいなね、あるいは、見事に葉の色づいた柿の木に夕方の薄い陽ざしが斜めに射込むみたいなね―ぼくね、美しい柿紅葉はあらゆる紅葉のなかでいちばん美しいと思うんですよ―その柿の木に鳩がとまって、「イッヒ・ビン、イッヒ・ビン」って鳴いてるような、そんな気がしたんです。「ぼくは、いる」ってつまり、そこにいるんですよね、イッヒ・ビンって音声と白い紙と黒い活字の調和ないし不調和のなかに。著者はブロッホという人でしたから、ひょっとしたら「イッヒ・ビン、ブロッホ、イッヒ・ビン、ブロッホ」とか鳴いてるのかもしれない―もちろんそんなの、著者のブロッホの思想とか活動とか生涯とか、そのエッセイ全体に書いてある内容とは、ほとんど何の関係もないですよ、いや関係はきっとあるんだろうけど、ぼくには不明です、だって続きは忘れてしまったし、改めて読もうったって読めっこないもの。それに……その最初に見たテキストってのはね、コピーだったんですよ、本じゃなくて。ゼミで配られたぺらぺらのコピーだったんですよ。字がささくれてたのは、だからただのコピーの加減なんですよね。とっとけばよかったのかもしれないけど、とっくにどっかへやっちゃった。だから、その鳩のいた素晴らしい庭は、もうどこにもないんです。ああいう庭がいつか造れたらいいと思うんだけどねえ」
   「雪が降るように勝負をつづける」という美しい言葉は、むかし愛読していた『ウォーターシップダウンのうさぎたち』の中にあって、その本は今ゆくえがわからないのだが、うさぎたちの長エル=アライラーが一族の存亡を賭けて黄泉の王の黒うさぎインレ・ラーと丁半ゲームをする場面だった。ラーという称号はなにやらエジプト式で、黄泉へ降りていった冒険者が何物かを獲得すべく黄泉の王ないし死者と賭博をする、というパターンの数多の物語のなかで、わたしが知っている限りいちばん古いのが、古代エジプトのパピルスにある。正確には『サトニ・ハームスの怪奇な物語』と称されるらしいが、子供のころ、少年少女向きの神話の本で、『まほうの本』というタイトルで読んだ。サトニという偉大な魔法使いが、「トトのまほうの本」を求めて持ち主の墓へ降りてゆき、その本を賭けてミイラと将棋をたたかわせる。ミイラの「胸にくくりつけて」あるこの本は、子供心にどうやら恐ろしく古い本のように思えた。しかもそのうえ、どうやら古本でもあるらしかった。
   ネノファケプター王子のミイラは言う。

そうだ、サトニよ。(……)その人は、トトのまほうの本のことをわしに話してきかせ、わしのねがいによって、その本のある場所を、つぎのように教えてくれたのだ。
「……コプトの海のまん中ほどの海底に、一つの鉄のはこがしずんでいる。そして、そのはこには、けっして死ぬことのないだいじゃが巻きついているのだ。
   鉄のはこの中には青銅のはこがはいっており、青銅のはこの中には肉桂石のはこ、肉桂石のはこの中には香木のはこ、香木のはこの中にはぞうげのはこ、ぞうげのはこの中には、きみょうな彫刻をほどこした銀のはこ、銀のはこの中にはまぶしく光る黄金のはこがはいっている。トトのまほうの本は、この黄金のはこの中におさめられてあるのだ。」(……)

(世界少年少女文学・古代中世篇1『ギリシア神話・北欧神話・イソップ物語』講談社)

本は、いつ古本になるのか。子供の頃に慣れ親しんで、その後なくしたとばかり思っていた本が押入の片隅から出てきたとき、それは同じ本でありながらどこそこ違う本のようでもあり、自分の記憶にない昔の自分、あるいは家族の誰か、他人のような他人でないような人がいったん取り扱ってそこにその本を置いたという痕跡が、その出現には明瞭に伴っているので、誰だかわからないその人はその本をわがものとして読んだかもしれず、読まなかったかもしれず、どっちにしろ従ってその本はすでに立派な古本になっているのだが、さて、それはシャーレに蒔いて流しの下に入れておいたもやしの種が十日後には立派なもやしになっているという具合の、暗闇のなかでひっそりと行なわれる変容の魔術であった。
   晴れて古本となるために、本は必ずどこかの闇のなかに一旦は格納される。物置でもよいし、ダンボール箱でもよい。古本屋もしくは知人宅へ移動するための手提げ袋、ポケット―あるいは、目の届きにくい本棚のいちばん上の壁ぎわの薄闇で埃にまみれているのでもよい。ラックの縁に隠れて書名もろくに読めないのを、たまたま訪れた友人が目ざとく見つける。
「あ、あんなとこに『うさこちゃん』がいる」
「え。ああそれねえ、なんだかわからないけど一冊だけずっと残ってるのよ、子供のときの。昔から本箱の隅っこにあってねえ、特に愛着のあった本というわけでもないんだけど、手放すに手放せないじゃない、そういうの。引っ越すたびに持ち歩いて、もう二十年くらい、開いたこともないんだけどねえ」
「どれ、ちょっと拝見……へえ、さすがに年代物ですねえ、背が布張りなんですね。こんなの今はもう見ませんね。『うさこちゃんとうみ』いしいももこやく、福音館書店……さすがに活版ではないですね。「あるひ とうさんの ふわふわさんが/「きょうは さきゅうや かいのある/おおきな うみへ いくんだよ/いきたいひと だあれ?」と いいました」懐かしいなあ……あ、ここに何か書いてある、鉛筆で。「5月22/けいさつの本」」
「それね、どうやら弟の字らしいのよ。いったん弟の本になってた筈なのが、いつの間にか戻ってきてたの」
「何です、けいさつの本って」
「さあ、わからないわ、聞いてみないと……でも聞いてもきっと当人もわからないわね、何のメモなのか」
「いま何を?」
「弟? 確か、モンシロチョウの研究か何かよ。どうして」
「いや、どうしてということもないけれども……『渋江抽斎』ですか、たまたま古書に見つけた蔵書印から、見知らぬ過去の人物とその卷属の生涯をたどっていく話が鴎外にありましたね」
「そうね、最初のうち捜査の動機や経過なんかも述べているけれどもだんだん純粋な克明な渋江氏の年代記に移り変わっていくのね。けっこう長い話だったわよね確か」
「とても長いかんじがしますね。で最後に、現存の子孫の某と某はどことどこにいてそれぞれ何歳である、といって終わったとき、何となく向かいの床柱の前の鴎外がそれまで読み上げていた紙を静かに膝に下ろす、ややあって障子の向こうで懸樋がコーンと鳴った音がするという具合で、こっちも静かに目礼したくなりますね。ぼく鴎外が特に好きというわけではないけれども、『抽斎』は何だか気になるんです、タイトルが特に気になります……なんであれ『渋江抽斎』なんでしょうね」
「評伝だから人名タイトル、というのではいけないの?」
「それなら『渋江抽斎伝』だっていいでしょう? 現に『西周伝』なんかも鴎外にはあるわけだし。でも『渋江抽斎』は『渋江抽斎』でなきゃいけないだろうなって気がするんですよ。例えば五味康祐の短編に『柳生連也斎』なんてのがありますけど―」
「あ、知ってる。その連也斎ってひとが最後に誰かと決闘して、どっちが勝ったんだかよくわからないっていうんで一時話題になったんでしょう」
「五味康祐の初期時代小説というのはかなり濃厚に鴎外の評伝の系譜を継いでますよ。文体が魅力的なんですが、例えば「{かれ}{かお}色はこのとき変っていた」なんていうちょっとしたところ、見ると鴎外そのままなんですね。連也斎というのもいちおう実在の人で、もちろんこれは『抽斎』よりはずっと小説なんですが、最後の決闘で連也が勝ったか負けたかというのは、言ってみれば『柳生連也斎』っていうタイトルは果して勝者の顕彰高札なのか敗者の墓碑銘なのかってことで―あ、ここにあるじゃないですか、『抽斎』。懐かしい旺文社文庫ですね、ちょっと貸して下さいね―ああ解説にこうあります、「前の二つは」―って『西周伝』やなんかのことですね―「前の二つは、いわば「顕彰のための伝記」であるが、抽斎は「発掘する伝記」であった」―ね、そうすると抽斎のタイトルは顕彰のための高札でなくて発掘のための墓碑銘だという具合になりますね、一見。そこで、だけれども墓碑銘ではなくって、それは蔵書印なんですよ、という―そういう話なんじゃないでしょうか、『渋江抽斎』って」
「……鴎外が見た蔵書印がそのままタイトルになってるというの?」
「鴎外の著書を手にとると『渋江抽斎』と蔵書印がついてて、「誰? どんな人?」と思うわけですね。つまり蔵書印の「抽斎」が鴎外を媒介にして増殖したんですね」
「じゃ「連也斎」は? 五味康祐を媒介にして増殖するの? 彼は蔵書印じゃないんでしょう?」
「さあどうでしょうか。とりあえず思うにあのタイトルの『柳生連也斎』はね、柳生武芸帳の一部なんですよ」
「武芸帳?」
「五味のこれは未完の長編で、『柳生武芸帳』というのがあるんですよ。武芸者と忍者と女が入り乱れて巻物を奪い合うという、その限りでは古典的な話なんですが、その武芸帳なる巻物には、要するに人の名前が並べてあるんです。連也の叔父にあたる柳生宗矩{むねのり} 鍵というのが、列記してあるその名前をひとつづつ抹消していきます。ああ、もちろんその人たちは実際にも消されて、実際に消されるから名前も消されるんで、そこには大変な秘密があるわけですがそれはともかく、恐ろしく錯綜したこの小説を読んでいると、どうも宗矩がほんとうに消したいのが名前なのか人なのか、わからなくなってくるんですよ。実際に人を消して秘密をもみ消すことが重要なのかとも思えるけれど、その秘密を解く鍵というのが、どうやら人名を列挙してあるその列挙のしかた自体にあるらしいんですね。それらの名前をただもうひたすら消していって、巻物が墨で真っ黒だか朱で真っ赤だかになっていってやがて白紙同然に、つまり真っ白になるという、そのことが重要なんだという気がしてくるのね。真っ白になれば、武芸帳は無害になります。次々に人の手から手へ渡っていってしょっちゅう行方がわからなくなるこの巻物をめぐって、それはもう死屍累々なんですからね、危険な古本ですよ、ことにそこに名前が出てる人たちにとってはね」
「連也斎の名前も出てるの?」
「いや、それは出てません、『柳生武芸帳』には連也は出てなくて、「のちの連也」である少年がちらっと出てくるだけなんですが、武芸帳に出てる人たちはみんな柳生の一門で、それを柳生の当主である宗矩が消していくのね」
「「柳生武芸帳」って、柳生のひとが書いたの?」
「ええ、五味の『柳生武芸帳』ではそういうことになっていますね、で、それが、ある時とつぜん著者が予測もしていなかった恐ろしい危険を伴った古書に変貌して立ち現れてきたんですが、必ずしも柳生が書いたから柳生武芸帳と呼ばれるわけではなくて、また必ずしも柳生に所属してるわけでもなくて、要するにどうも柳生と深い関わりがある書物らしいというので一般にそう呼ばれるんです。柳生が刻印されているというのでね。そういう意味ではだからこの「柳生」も一種の蔵書印なんですね。これはつまり柳生が自分の蔵書印のついた古書を抹殺しようとする物語なんです。でもなかなか抹殺しきれない、なぜならこの危険な武芸帳は……」
「どうして? なんで抹殺しないといけないの?」
「……なぜならこの危険な武芸帳は、やっぱり増殖するんです。それもひどく無秩序に。初め三巻に分かれてるんですが、人から人へ渡るうちに偽物が混ざったり二つにちぎれたり互いに入れ替わったりして、どんどん増殖します、未完じゃなかったらもっと増殖したでしょうきっと。連也の名前もどっかで紛れ込まないとも限りませんよ……宗矩が恐れるのは、柳生の蔵書印が増殖することなんです」
「なぜなの?」
「そう……彼はたぶん、鳩がきらいだったんですよ。無秩序に増殖する鳩がね。ぼく、柳生武芸帳は、たぶんとても美しい古書だったろうと思いますよ。でも宗矩は美しい古書の中の秘密なんか知りたくもないし、秘密が存在することがそもそも許せなかったのかもしれない。イッヒ・ビンと鳴く鳩がしっくり居る庭なんてものを、彼はきっと信じたくなかったんですよ」
「……実際家だったのねえ。当人の意図にかかわりなく増殖しちゃうのね、蔵書印が。だって増殖させるのはゴミで、宗矩は登場人物なんだものね。それはさぞ奇々怪々でしょうねえ……ねえ、だけど、じゃ蔵書印がついてるんなら、鴎外作『渋江抽斎』も、みんな古本なの? 古くなくっても? ピカピカの新刊でも?」
「そういうことになりますね」

ネノファケプター王子は魔法の力で海底から函を引き上げ、封印を解いて函の中から本をとりだし、我がものとしたのである。幾重にも封印されてきらびやかに凝縮した闇の中でこの本は果して変容を遂げたのだろうか。その闇に収められる以前の「トトのまほうの本」の出自、由来といったものは、この『まほうの本』の物語では一切なんの説明もされていなかった。ただ、タイトルのほうに「トトの」が欠けていることによって、「トトのまほうの本」が「[トトのまほう]の本」ではなくて「トトの[まほうの本]」だとかろうじてわかるだけだった。トトというのが何かの神様の名前だということは、『まほうの本』が収められていたこの神話の本の別の箇所からわかっていたけれども、そのトト神とどうやら同一人物と思えるトトと、「トトのまほうの本」がどういう関係にあるのか、さっぱりわからなかった。いま「大人向け」翻訳書を読めば、これは智恵と学問の神トト、「月」と称されて黄泉の審判記録をつかさどる書記の神トトが書いた本であるとわかるけれども、当時はそんなことを知るすべもなかったので、「の」という助詞が「による」という意味なのか「にまつわる」という意味なのか単純に所有格なのかという疑問すら明瞭に抱くことのできないままに、ただ単に名前が出てくるだけの「トト」と「まほうの本」の関係はひたすらに不明で、その関係不明性がまことにきみわるく、そのきみのわるい本を胸に結びつけたミイラとサトニが将棋をたたかわせるのが、「まことにきみのわるい光景ではありませんか」と『まほうの本』には書いてあったけれども、確かにまことにきみのわるいその場面の挿絵を見ながら、トトというひとはいったいどうなったのだろうとそればかりが無性に気になっていた。
   不明ではあっても、関係、それも浅からぬ関係がトトと本の間にあるらしいとはもちろん推察されたから、どういう事情で幾重もの函の中に収められたにせよ、赤の他人の手に本が渡ってしまってトトは悲しくないんだろうかとも考えた。しかしどうも、悲しいとか腹が立つとか嬉しいとか、そういう明確な感情がトトにありそうには思えなかった。トトは―この何とも音声単位的な、渇いた地面に木の実が落ちるような独立完結的な響きの名前(より正確にトートと引き延ばして発音すればドイツ語の Tod(死)に通じる、などとはやはり思いも寄らないので、そこに書いてある通りトト、トト、トトとまるで鳩の足音のような響きの、鳩の足跡のような字面の名前)を持ったなにものかは、もっと無感情にもつれてほつれて光っているように思われた。トトはとてもとても古い人らしかった。古いトトは古い本をどうしちゃったんだろう、そして赤の他人ふたりが将棋をさしているときトトはどこで何をしているんだろうと思った。
   この神話の本は長らく視界から失われていたのが、つい先日、思いも寄らぬ場所から一冊だけぽつんと発見された。見ると古本屋の印がついていた。どうも元々古本屋で購入されたらしかったが、当時そんなことは知らなかった。ページをめくると記憶の通り『まほうの本』がちゃんと入っていた。そしてわたしはトトの本のことを思いだしたのだ。トトはやはり「トトのまほうの本」という本の呼称にしか出ていなかった。「トトのまほうの本」は、つまりはトトの名前の出ているまほうの本なのだった。トトの蔵書印のついたまほうの本、いわばトト文芸帳であって、それはそれは危険な古本だった。その本をサトニがめくると、かつてその本をめくったネノファケプター王子の蔵書印もついているということのようだった。
   この物語はわたしの知る限り最古の古本物語だけれども、同時に最古の愛書狂物語でもあって、ネノファケプター王子は本を入手したのと引き換えに妻と子と名誉と全ての幸福を失い、本を胸にくくりつけて入水し、サトニはと言えば王子から本を奪ったのはよいけれど王子の遣わした怪しい美女に惑わされて法力をいっさい失い、結局本を墓まで返しに行く羽目になるという久米の仙人譚で、愛書と恋愛の二律背反というおなじみのモチーフまでがすでにここにあるのだった。鉄と青銅と肉桂石と香木とぞうげと銀と黄金の七重の函入りの、智恵と学問と記録と書記の神トトの印のついた本―欲しい。愛書狂サトニとネノファケプター王子はそれを何としても手に入れるべく、そして秘密を抹消ではなく解明するべく、それぞれ海を越え闇を越えて苦難の道を突き進んだのだった。

さきゅうを のぼったり くだったり。
「さきゅうって おおきいのねえ」
「ああ おおきいんだよ うさこちゃん。
ほら むこうを ごらん。かいがんだ」

かいがんの てんとにつくと うさこちゃんは
くるまをおりて いいました。
「ああ はやかった らくだった。
とうさんは うまみたいに ちからもち」

『うさこちゃんとうみ』

「……「うまみたいにちからもち」って、何だかすごい比喩ですねえ。「とうさん」って、ふわふわさんって名前なんでしょう。このオメメと、このオクチで、チョンとしたこの何とも平面的なふわふわさんが、うまみたいにちからもち……って、想像できますか。ちっちゃい子はどう受けとめるんでしょうかねえ」
「さあ、なにしろ自分がどんなふうに受けとめてたか、全然おぼえてないものねえ。うまみたいって書いてあれば、うまみたいなんだなって思うんじゃないかしらね。なんかヘンだなあとかりに思っても、「うまみたい」というのをそのまま受け入れるからこそヘンなんでしょうねきっと。で、そのヘンさ加減に素直にのめりこんだりするのよ……一生懸命くるまひいてやったあげく無邪気に「うまみたい」なんて喜ばれちゃう父親の哀愁と子供の残酷さやなんかをそこで感じてしみじみするのは、大人だからよね」
「この「さきゅう」の絵もいいですね、海も空も紺青で、なんだか夜空みたいだなあ、この丸い黄色いでっかいのはお陽さまなんでしょうけどねえ」
「月よ。どう見たって月よ。アメリカはともかく日本の子供ならほぼ確実に月だと思うわよきっと」
「……満月の夜以外の何物でもないですね。海水浴に行くんだから昼間で太陽のはずだけど、いまはひるまですとも、おひさまがまぶしいわとも、文章にはぜんぜん……」
「そう、書いてないものね。うさこちゃんはうまみたいにちからもちのとうさんのひくくるまに乗って、満月の夜の砂漠の海岸へ貝ひろいに行くのよ」
「すると皺ひとつない紅白のテントが秘めやかに立っているんですか。大抵の子供は砂丘なんて見たことないでしょう。「さきゅう」って、さぞかしへんな謎の場所だと思うでしょうね。人はいったいどこにいるんでしょうね」
「誰もいないように見えるその場所が、気に入るのよね、誰かいないかなって捜したりしながら、しっくり落ちついて居ついてしまうのよ」
「本や絵の中に入り込んでしまうって話はたくさんありますね。入ったきり出てこなくって行方不明になっちゃうの」
「「のめり込む」っていうやつね。だいたい正面斜め下に置いて読むからいけないのよ、本って。盥の水に顔つっこむみたいに読んでる人ときどきいるものね。何時間でも息しないでいるのよね」
「……鰓ができちゃうんでしょうねきっと。そうなると陸へはもう上りきれなくなっていつまでも海岸にいますね。夕日とも月ともつかない緋色の大きな丸いものが西へ轟々と沈んでいく海岸の砂浜に色もあやな蝶々がたくさんとんでいて、沖には奇想天外な様々なかたちをした色とりどりの無数の図書館が浮かんでいるってな光景を、ぼく夢で見たことがありますよ……」

「なんと言っても(……)人間が失踪する伝説となると、きりがない。みんな妖精がさらってゆくんですからな。あなたが捜していらっしゃる行方不明者はキルムニーですか、それとも詩人のトマスなのですか」
「わたしの捜しているのは、皆さんが新聞でお読みになるありふれた現代人です」とオープンショウは答えた。「(……)新聞によく出ている、消えたまま二度と出てこない人たちの話なんですが(……)」

(チェスタトン『古書の呪い』中村保男訳、創元推理文庫)

「消えたまま二度と出てこない人たち」が「新聞によく出ている」―それはどういうことなのだろうと、はたと考える。開いた者がことごとくたちまち掻き消えてしまうという「呪いの古書」の謎を解き明かしながら希代の逆説師ブラウン神父が「重要なのは、失踪{ディサピアランス}ではなく出現{アピアランス}のほう」だと力説するのを聞いていると(本来それは、失踪者は実は消えたのではなく別の姿で現われただけ―あまり端的に眼前に出現しているので返って目に見えないという例の逆説の変種なのだけれども)、つまり人が消えたまま二度と出てこないことよりも、消えたまま二度と出てこないそういう人たちが新聞に「出る」、そのことの方が問題なのだという気がしてくる、つまり、本を胸にくくりつけてネノファケプター王子が入水自殺したことよりも、その王子がミイラとなって、サトニのめくるトトの本に出てく{アピアー}ることのほうが。トトがどこにいるのかわからないことよりも、王子のめくるまほうの本に、そして『まほうの本』に印された名前となって出ていることのほうが。
   愛書家がどのように生き、どのように本を「胸にくくりつけて」死んだかということよりも、かれの印が本に出現しているという端的な事実のほうが大事なのだった。同様に、著者も編輯者も製作者一同も跡形もなくやがて烏有に帰して本だけが残るとかそういうことも、実はあまり問題ではなくて、かれらのつくった本にかれらが出ていることが問題なのだろう。表紙に、本文に註に、背に袖に奥付に著者あとがきに出てくる彼らの名前はみな蔵書印で、名前となって、あるいは氏名不詳の無数の「?」となってそこに出ている彼らがその本をつくり、やがて手放したのだった。「誰?」そして「誰がいつどこでどうしてなぜ?」をめぐって、「?」のなかに隠れた鳩を掘り出すために何世紀ものあいだ雪が降るように議論が続けられていくのだ。―あるいは、プリントアウトに失敗して膨大な原稿が文字化けして出て来たとしよう。自動製本機がそれを大量にコピーして適宜製本したとしよう。すばらしく美しい外観{アピアランス}―それはコンピュータが勝手にやったのだ。しかし「勝手にやった」という想念は既に無意識の擬人化をふくんでいる。機械だからもちろん何も考えずに勝手にやったのだろう。でも人間も時にはたいして何も考えずに本をつくる。それでもその人は、本に出る。
   本は、何かがそこに出るためのものであると同時に、それ自体が「出る」ものでもある。「岩波書店から鴎外が出た」というとき、それは「三笠山から月が出た」というのと同じようで、それはとても平和な光景と思える。けれど同時に、その鴎外が「店頭に出た」というとき、それは「一つ目小僧が夢に出た」というのと同じようで、それは、とてもこわい。例えば―「阿部カスガって誰だっけ」「ああ、三笠山書房の設立者だよ。『渋江抽斎』にも出てくる。なんで?」「こないだ夢に出たんだよ。誰だったかなと思って。そうか鴎外に出てたのか。三笠山書房って大きい出版社?」「大きくはないけど、昔から結構いろいろ出してるよ、鴎外とかも。古い本なら阿部春日って奥付に出てるんじゃない。阿部一族もあそこから出てるんじゃないかな。古本屋にたまに出てるよ」……それ自体「出る」ものである本を媒介として本屋の棚には無数の書妖がまるでもやしの尻尾のようにもつれ合って、かたまって出ているのだった。あまり端的に出ているので、返って目に見えないのである。まことにきみのわるい光景ではありませんか。

「(……)それにしても、ああいう事件の連続というか累積はたまげたものだと認めぬわけには行きますまい。あなただって、一瞬間くらいは、あの恐ろしい書物に恐怖を感じたでしょうが」
「ああ、そのことですか」とブラウン神父は言った。「わたしは、それが机の上に置いてあるのを見るとすぐにあけてみましたよ。どのページもみな白紙でしたなあ。だいたいが迷信家じゃないものでしてね、はい」

(『古書の呪い』)

「迷信家じゃないから本を開けられたの、それとも迷信家じゃない人が開けたから白紙だったの? どっちなの?」
「さあそれが、本来は前者で、誰もが「迷信」を信じて怖がって開けずにいたから、「呪いの古書」なるものがただの白紙だったってことがわからなかったという話にとれるんですけどね、どうもね、「白紙だった」っていうのはブラウン神父がそう言ってるだけなものでね―ブラウン神父というのはたいそう逆説的な人ですから―ほんとは白紙なんかじゃなくてびっちり出てたんじゃないかって気がして落ちつかないんですよ。ただ神父の立場として、書妖なんてものを意に介さない、書妖なんぞにとらわれないという確固たる信念を表明するべくあえて「白紙だ」と言ったんじゃないかと、そういう意味で彼は「実際家」なんじゃないかと勘ぐりたくなりますね」
「神父にかかったら、じゃ柳生武芸帳もただの「白紙」なのねきっと」
「書妖なんてものは、結局ただそこに出てるだけのものだというのが端的な事実ですからねえ。それが呪いを振りまいたり人にとりついたりするというのは神父にとってはあくまでも「迷信」なんですよ。本屋に行くとそれはもうぎっしり出てますけれどね、鳩がうるさくって人とろくに挨拶もできませんよ、イッヒ・イッヒ・ビン、イッヒ・イッヒ・ビン……」
「ほかの鳴き方はしないの」
「しません。だって、そこに出てるほかは何にもしないんだもの」
「何にもしないの?」
「しません。出てるだけ。で、ときどき殖える」
「古本でも新刊でも? 著者や編輯者やいろんな人がまだ生きてても?」
「そもそも新刊と古本っていったいどこが違うんだと思います? いったん闇に収められて、つまり誰かの視野から一旦うしなわれることで本が古本になるとするでしょう、そうすると、ぼく、逆に本の側から考えて、その本に関わりのある人間が少なくともいったん闇に消えた本を「古本」と呼びたい気になりますね。製作者ないし関わった人間が、その本に「出る」ことでそのままトト化する、つまりそこ以外どこにもいなくなるような本―「出る」と同時に製作者一同との関係をいっさい断ち切るようにして出てきた本ですね。実在のその人と鳩が分離するんです。そのあとで人のほうが更にどんな活発な活動をしようと、そこで分離した書妖鳩のほうはもう未来永劫イッヒ・ビンとしか鳴きませんよ―声の質はまあ鳩によっていろいろですけどね。一見なんの変哲もない材木を上手な職人がしずかに伐って琵琶の胴をつくると、そのおもてにおのずから白い鳩のすがたがあらわれる不思議の話が『録異記』にありますね」
「ふうん。そうすると人と鳩が分離してない本を「新本」と呼ぶことになるのね。トト化していない人、つまり実在のその人とその本の関係が絶えず明快な本のことね。そんな本があるのかしら。あるとしたら、新刊古書を問わずジャンルを問わず、「古本」と「新本」があり得るわね」
「そういう定義になりますね」
「新本には、つまり書妖は出てないのね。じゃ、何が出てるの」
「……出てません。なんにも」
「なんにも?」
「何にも出てません。入ってるんです。ぎっしり詰まって、または閑散として、時にきちんと時に乱雑にごちゃごちゃにもういろんなものがいろんなやりかたで、入ってるんです、そこには何も、誰も出たりしない。それは庭じゃなく、部屋なんですよ」

「では、そなたが[トト]の聖所の秘密の部屋の数を知っているという話はどうじゃ。」ジェディは答えました。「もしそのことがあなたのお気に召すといたしましても、おお王さま(万才!)わが君よ、私はその数を知りません。ですが、それが(分かる)場所は知っております。」陛下は申されました。「一体それはどこなのじゃ。」するとジェディは答えました。(9.5) 「ヘリオポリスの『<記録>(の間)』とよばれる部屋に燧{ひうち}石の(小)櫃がございます。この櫃の中に[あるのです]。」[陛下は申されました。「行って、もってまいれ。」]

(筑摩世界文学体系1・古代オリエント集所収『ウェストカー・パピルスの物語』)

「……何だかたくさん柵や囲いがあってとってもすばらしく錯綜した花壇ねえ。花壇なの、それとも仕切り部屋なの。庭と部屋は、いったいどう区別するのよ」
「だから、庭は出るところ、部屋は入るところなんですよ。ふたつは、出入り口でつながっています。ほら、「表へ出ろ」って言うじゃないですか、勝負するときは……」
「将棋やチェスなら、「こちらへお入りなされ」とか言うんじゃないの。さいころトバクだって屋内でやるんじゃない」
「部屋数が丁か半かって? そういえば「出入り」というのもありますね。要するにトト・カルチュラルな出入りというものが書物にはつねにまつわってるという、実にもって不道徳な……よくあるじゃないですか、書物を偸む不逞の輩の話というのが。『抽斎』にもあるし、そうそう確か『平妖伝』にもありましたね、必死に天書を盗んできたのに白紙だったっていう―ただし月の光に透かせば縁のある人にだけは読めるんです。それは白い本だったんですね、何も出ていない、白いまほうの本だったんですよ」
「新本というのは、白いまほうの本のことなの?……じゃトトのまほうの古本は、黒いまほうの本なの?」
「別にことさら黒白をつける必要なんかないんですがね。記録の神トトは、新本も古本もどちらも嘉するはずです、どっちもトトの本なんですよ、ただ、新本には蔵書印が押してないだけのことです、それだけのことなんですよ、だけど……」
「だけど?」

「ヘリオポリスの『<記録>(の間)』」の中の「(小)櫃」の中に「[ある]」「場所」で「(分かる)」という「[トト]の(……)秘密の部屋の数」が「(分かる)」場所とはすなわちここで、この大小無数の「」や()や<>や『』や[]の中にトトはいる。幾重もの小函の中に見つけたパピルスに無数の人たちが星砂のように記号をちりばめてつくったこの本にしずかに向かい合った者は、はるかな人たちが幾世紀を越えて秘密の部屋を数えてきたその痕跡をおのずからたどる―人はどこにいるんだろう、いったい誰なんだろう、トト、トト、トトと鳩を呼びながら、するとやがて織物{テクスト}は森になり部屋は花壇になって、鳩も彼もいつしか庭に出てい、紅白のテントのあずま屋に入っていくと燧石の小櫃があって、中に横たわったミイラの胸にくくりつけてある「けいさつの本」……「それほどこの本がほしいのなら、わたしてもよい」とインレの(黒)うさこちゃんは言った。「ただし条件がある。生ける人間のうちでもっとも偉大なまほうつかいであるおまえと、死者のうちでもっとも偉大なまほうつかいであるわしが、一つ、まほうくらべをやろうではないか。勝てば本はおぬしのものじゃ」「よかろう」宗矩はつと立って縁先から庭へ降りた(中略)「たはッ……さては最初から白紙と知って。ならば真実の武芸帳は……おぬし」「知らぬぞ」(中略)「(……)だいたいが迷信家じゃないものですからね。ただ、そのありかが(わかる)場所は知っています」「一体それはどこなのじゃ」「おおきなさきゅうの向こうのコプトの海のまん中ほどに、たくさんの図書館が浮かんでいます。その庭のひとつに、だいじゃの巻きついた鉄のはこが埋まっていて、鉄のはこの中には青銅のはこ、青銅のはこの中には肉桂石のはこ(……)の中に[(白い)まほうの本が]あるのです。だけど(……)」

「だけど?」渠の面色はこのとき変っていた。
「だけど……ええ、だって、縁のない人には、白いまほうの本にいっぱい入っているということがわからないのと同じように、黒いまほうの本にびっしりと出ていることも、縁のない人にはわからないんですよ。黒白両方の本に縁のある人なんて、世の中にいったいどれだけいると思いますか、そんな幸せな人が、どれだけいると思いますか、ほんとうのトト、古い古いトトの他に。ほんとうの古いトトなんてものが実在するとしての話ですよ。だってそんなものは、本に出てくるだけなんだから、ぼくにとっては。ああ、ぼくにはトトが見えないんだ、トトはいつだってぼくには鳩で、白いまほうの本とほんとうのトトの関係は、ぼくには依然として不明なままで、いつか瞭然とすることがあるとはとても思えないんですよ、だからぼくは本屋がとても辛いんです、鳩がうるさいからじゃない、鳩じゃないものが混じっているからで、そのものが何なんだか、ぼくには見えないんですよ。そのものはとてもおしゃべりで、いろんなことをしゃべっていて、とても楽しげに晴やかにきこえるんだけどもぼくには理解できない、だってイッヒ・ビンしかわからないんだものね、続きは、とっくに忘れてしまったんですよ。……その愉しげな声の聞こえてくる白いまほうの本は、ぼくにはまっさらな白紙のようで、ほんとうにぴかぴかした真っ白な光のようで、ぼくは幻惑されて混乱してしまって、ろくに挨拶もできなくなるんです……ねえ、だってぼくは黒いまほうの本しか読めないんです、庭に関係あるのは黒いまほうの本だけですからね。仮にそのぼくの読む本に、輝かしい晴れやかな太陽のことが出てるとしますね―お陽さま、お天道さん、日輪、 sole mio ―万物の生命の根源のお陽さまのことが書いてあるとします、そしたら、それは?」
「……それはって?」
「それはね、つまり陽が出てるんですよ。庭にね。それは亡陽{ぼうよう}、陽の亡霊です。庭と部屋が取り替わるように、書妖界ではね、陰陽も取り替わるんですよ。亡陽が月で、亡月が陽。テントの紅白は喪の色で、陽光を追いかけて、人々は奈落へ沈むんですよ、ぼくたちのところではね。本にとりつかれた奴がもやしと呼ばれるのは、だからある意味であたりまえなんです、陽光に手を差しのばしているつもりで、{トト}へ、黄泉へ向かっているんですからねえ、そして{トト}が生なんですからね、なにしろ書物の神トトは、「月」と称されて本に出ているんですからねえ、つまり亡月、すなわち陽なんです……ねえ……うさこちゃんのいるあの海岸、さきゅうに懸ってるあの黄色い丸いの、あれ、本当に月だと思いますか」
「……ええ。……思うわ」
「月だと思うの、それとも亡月だと思うの?」
「それは……それは、だって亡月のはずがないわ。あれは月よ。亡陽……だと思うわ」
「そう。……なら頼みがあるんだけど。よかったら、ぼくの胸からトトの本をちょっと取りのけてくれませんか。固く結んであるから無理かしら。ぼくちょっとの間、本にかかずらわるのやめて庭つくりがしてみたいんです。気が向いたらやってみてくれませんか、ぼく、まだ当分ここにいますから」

「……とまあ、そんな具合に出ているのかしらね、書妖は」
「とてもロマンチックですね」新聞紙の中央のもやしの山はかすかな湿り気だけを残していつしか失せ、左右に尻尾と身の小さな山ができていた。「亡陽というのは悪くないですね。陽妖とは言わないんですか」
「書物に出る亡霊が書妖なんでしょう。なら陽妖っていうのは陽に出る亡霊よね」
「太陽につっこんでいったひばりか何かが鳴いているんでしょうかね。どうしてもロマンチックな話になるんですね」
「いけない?」
「いけなくはないけれども……ほんとうに、あなたってもやしの尻尾もひとりではとれない情けない人なんですね」
「……もう一袋あるんだけど」
「もう日が暮れますよ」
「いいわよ。日なんか暮れたって。晩ごはんつくってあげるわよ……それで結局、連也斎は勝ったの負けたの、どうなの」
「どうなのって言われても……そればっかりは武芸帳の秘密を解かなきゃわかりませんよ。どうだっていいじゃありませんか。ぼくおなかがすきました」
「よくないわよ。気になるわよ」
「ただの小説なんですよ?」
「だって本に出てることに変わりはないでしょう。この人どうしちゃったのかな、って思うもの」
「……本は、いったん出たら焼けて灰になるまでずっと出てますからねえ。最後の一冊が灰になるまで、書妖もずっと出つづけるわけですね。勝ったのか負けたのかよくわからないまま、ひたすらずっと向かい合っているんですね―それは辛抱のいることだろうと思いますけど、悲しいとか苦しいとか、あまっさえ「本屋が辛い」なんて明確な感情を書妖は持たないもんじゃないですかねえ。うみへ行こうがゆきがふろうが、相変わらず一見平面的な無表情で、無心にチョンとして出てるだけなんですよ、書妖は。誰にどんな値段で何冊買われようが、馬耳東風なんですよ」
「ふうん……うまみたいに幽玄なのねえ、うさこちゃんって」
「実際、能を見るときみたいな緊張のはりつめてる古本屋がときどきありますからね。何といってもぼくは野外の薪能がすきですよ……パンをかじりながら見られますものねえ」
   海から上った紅い月を背景に昨年どこかの海岸で行なわれたという野外能をうっかり見損ねたことを思い出して、ぼくはまたちょっと残念な気持ちになったのだった。かじりかけのパンをそのままに何世紀も経めぐって戻ってくるとまだパンがあるというあの感じが好きなのだけれど。晩ごはんに何を作ってくれるつもりやら、友人は無心に手を動かしていて、実に茫洋としていてつかみどころがない。連也も抽斎も鴎外もブラウン神父もブロッホも彼女には同程度に赤の他人で、うさこちゃんと同程度にみな実在なのだった。『武芸帳』を貸してやったら果たして読むだろうか? もちろんぼくだって、誰とでも一緒にもやしの尻尾をとるわけではない。古来この勝負は相打ちを至極とする。とても面倒だし始めたらとても三日ではやめられないのだから、兵糧はどうにも欠かせない。パンだって必要だ。パンもまたエジプトで発明されたということを子供のころ何かの本で読んだ。

(初出=『ユリイカ』02年2月号(特集:古書の博物誌)、青土社、2002)


*上記初出原稿に若干の改訂を加えた。

back to paneltop