人文無用(パラケルスス)
(……)まず第一に医師は、天と地を素材・種類・本質において知らなければならない。これに精通することで、彼は、医術の中に足を踏み入れることができる。こうした経験と知識と技術を習得することによって、医師としての活動が始まるからである。
これが私の目論見であり主張である。すなわち、それゆえ事の次第は医術にあること、外なる医師から内なる医師が生まれること、外なる医師のいないところでは内なる医師もいないこと、そして内なる医師が自分の考えから活動し、指導し、教示するものは無益だということである。内なる哲学は、捏造されたもの以外には何も教示しないからである。(……)必要なのは、思弁をやめること、そして、思弁から発するものに従うのではなく、外なる人間の予示と表示から発するものに従うことである。
さて、私たちの対立と抗争は次の点にある。私の反対者は思弁を試みるが、私は自然からの教えを説く。思弁とは空想のことであり、空想は夢想家をつくる。つまり空想とは、何らの根拠にも基づかず、誰にでも勝手気ままに判断を任せてしまうことである。したがって、そういう人は、何を望むにしろどう望むにしろ、十分すぎるほど十分にみずから空想をめぐらすことになり、結局のところ、この者は、何も望んでいるものがないのに何かを望んでいる人と全く異なるところがない。思弁したり空想したりする者たちが思弁し空想するものは、まさに無意味なものなのである。彼らの医術はこのような基礎を頼りとしている。まさにその点にこそ、私と彼らの基礎の相違があることに気づいてもらいたい。
思弁が有益で役立つなら、頭に思い描いただけの願い事も役立つであろう。そういうことなら、私に対する有益な争いもおこりえたであろう。しかし、私に対して実際に争われるもので長続きするものはない。私が示す基礎は、思弁ではなく発見だからである。(……)君たちは、この病気は黄胆汁によるとか黒胆汁によるとか言ってはならず、砒素の効く病気だとか明礬の効く病気だとか言うべきである。もし君たちが、木星の病気であるとか、土星の病気であるとか言うようであれば、私は君たちと争うことはありえない。君たちが、それはショウブの効く病気であるとか、その病気はアンテラの効くものであるとか言うようになれば、私は君たちが学識豊かな博士であると言うだろう。そして私は、真実によって語ることができるだろう。というのもその認識は、外なる哲学から出発しているからである。君たちが、その病気はプレギウムが効く病気であるとか、メリッサが効く病気であるとか言うようになれば、私は、君たちがこれらの病気を理解していることを認める。
しかし君たちが、それは黄胆汁による病気であるとか、粘液による病気だとか言うのであれば、私は、君たちがその病気を理解していないということ、いやむしろ、真理を伴って生まれはしない思弁と空想から君たちが誕生した、ということを知る。それゆえ、君たちの言い方は医学的ではない。空想的で思弁的であって、そのような基礎を捏造することが許されているのは愚か者だけだろう。(……)
(……)外なる哲学のないところには、いかなる医師も生まれない。そこに生まれるのは、詐欺師と狂人、夢想家と愚かな知恵だけである。さて、医師は第一の知識を哲学から得るべきであり、哲学は人間に由来するのではなく、天と地、空気と水に由来する。これらの中に医師の知るべきものと理解すべきものがある。哲学者は、そうしたものについて語ったり探ったりするが、黄胆汁、粘液、黒胆汁、血液についてはそうでない(……)
では、思弁的な医師が「私は哲学することができるが、その哲学ではまだ不十分である。私はもっと知らなければならない。それゆえこうして四体液などを設定する。すると私は、それを理解することができる。今や私は、哲学が示したり守ったりしている以上のことを知っているにちがいない」と言うつもりであれば、以下のことに注意してもらいたい。君はそれに関しては正しくない。なぜなら、そんなものは身体にはないからである。だから、それが体の表面に申し分なく君に示されることはないだろう。むしろ、すべては多様な仕方で示される。それゆえ、君は、とくに哲学の知識をもつべきだったろう。そうすれば、さらに別の基礎に基づいて思弁する必要はなかった。
ところが君は哲学の基礎をもっていないので、そのような継ぎはぎ細工を用いざるをえない。君たちはさながら犬捕獲業者たち、正直者から離れて裏路地に入って座り、誰も口出しも割り込みもできない商談をする者たちのように振る舞う。医師である君たちも同様に思弁によって名前を捏造し作り出すので、誰も君たちに口出しはできない。つまり、君たちはわけのわからない言葉を持ち出すので、正直者は、君たちを理解することができず、君たちを非難するのを断念せざるをえない。こうすることで君たちは、シュロの葉を手に入れた。
しかしほんとうは、哲学者たちが、君たちの思弁のもつこの特性を、私のように知っていたなら、彼らは、「何という奴、皮剥ぎ人め」と言っただろう。やすやすと君たちは、自己流の言い回しや言葉を使ってあらゆる学識者から自分を守る。もし君たちの言っていることを理解するようになれば、世間のあらゆる人々は、それが欺瞞であるとおそらく嗅ぎ付けるからだろう。例えば次のような場合である。薬局で君たちが、アントス(ローズマリー)、ケイリ(ニオイアラセイトウ)、ブグロッサ(ウシノシタ)、ウェロニカ(ゴマノハグサ科クワガタソウ属)などと記入する。それに高額の代金を支払うような農民たちは騙されやすいお人好しにちがいない。それは、誰も口を挟むことのできない詐欺である。仲間内でしか通用しない言葉は誰も理解できないからである。その言葉は農民が呼びなれたものの名前のことなのに。このようにして医学は、あらゆる職業から分断され、抗議されぬよう言葉や方法や態度に関してあらゆる学識者から隔てられたのである。しかしそれは、哲学ではなく思弁なのである。(……)/(……)
ところで、私が描く哲学者像とは、次のようなものである。哲学者は、天と地という二つの道において、つまり天と地それぞれの勢力圏から成長する。片方の勢力圏だけではその成長は半端な形で始まり、両方そろって成長は完全な形で始まる。両方の勢力圏にかかわってこそ哲学者と呼ばれるべきなのだが、哲学者という名前が示す通念に従えば、そうではない。下の勢力圏を認識している者こそが哲学者であり、上の勢力圏を知っている者は天文学者である。しかし両方の勢力圏は、天文学者のもの、哲学者のものであり、一つの理解、一つの技術に属している。
本来、二つの勢力圏は自然のすべての四領域(天・地・空気・水の領域)にあっては天文学者のものである。鉱物の発生と大地の特性を知っている者は天文学者であり、大地の生み出すものを知っている者も天文学者だからである。空気におけるマナを知っている者も、土星や木星などを知っている者と同様に天文学者である。これに対して、天による刻印、その影響力、その経過を知っている者は哲学者である。大地のことだけを知っている者と同様に、空気のことを知っている者も哲学者である。自然にかかわるものが哲学だからである。
ところで、自然の四領域には、一つの構造原理、一つの本質、一つの素材がある。なぜなら、土星は天にだけあるのではなく、海の奥底にも、大地の内奥にもあるからである。(……)
それゆえ、異なっているものにおいても同一のものを知っている者こそが哲学者である。それらは目に見える形に関してのみ異なっているが、それ以上は異なっていない。それらは四つのものではなく、ただ一つのものであるにすぎないからである。雨を判断しようとするのは誰か。天文学者である。露を判断しようとするのは誰か。天文学者である。滑石(タルク)を判断しようとするのは誰か。哲学者である。雄黄(カミキア)を判断しようとするのは誰か。哲学者である。何かを判断する者は、別のものも知っている。さまざまな名称が存在しても、技術は区別されない。知識(スキエンチア)も区別されない。すべては一つのものだからである。
さて、このことから明らかなように、単純な哲学者は、一つのものにしか精通していないので無用である。幾人かの哲学者は二つのものに精通しているが、これも無用である。三つのものに精通している者も無用である。四つのものに精通している者はしかるべき哲学者である。四つのすべてをカバーするかぎり完全であり、すなわち医術は万物の全体かつ究極なのである。天文学者が雨や雪を知っていても、それらが何の役に立つのかを知らなければ、無意味というものである。だから彼は無用なのだ。彼は、自分自身が相対するものの特性を心得ていなければならない。それがなければ彼は無用である。ありとあらゆるものが医師をつくる。/(……)
(……)医師は、地において、水において、火において、空気において一つの人間を追及しなければならない。四つのものにおいて四つの人間を追及するのではなく、そのすべてのものにおいて唯一の人間を追及しなければならない。そして、四つのものにおいて次のことを学ばなければならない。この人間には何が欠けているのか、人間はどこへ上昇して下降するのか、何の点で彼は増加するのか減少するのか、どんな場合に人間は健康であるのか、どんな場合に人間は病気であるのか、ということを。/(……)
医師にとってこの外なる人間の構造原理は、生き生きと頭に思い浮かべられ、心に刻み込まれるべきものである。それが完全であれば、医師は、頭の細い毛も毛穴も逸することなく、実地検証に基づいて一切を完全に理解するだろう。それゆえ、処方の決め方も同様に定められなければならない。身体部分が身体部分に対応し、それぞれのものに相応しいものが与えられるためである。(……)/(……)
君たちの医術はこうでなければならず、君たちの着想のようであってはならない。まさに哲学とは、外なる人間を認識し、それを通じてミクロコスモス(人間)を認識することである。そうなれば今こそ君は医師と呼ばれ、頑丈な岩のうえに立つことになる。(……)/(……)
君たち、親愛なるすべての医師よ、外なる人間の姿は何と偉大であることか。外なる人間のアルカナ、効力、特性、本質、能力は、何と偉大であることか。君たちの思弁と発明とは何なのか。消毒したり、下剤をかけたり、瀉下したり、清潔にしたりすることを徹底的に正しく認識することである。内科医であり外科医である君たちよ。君たちは、ここから成長すべきであり、ここから生まれるべきである。君たち自身の未熟な頭からであってはならない。そこには堕落と欺瞞のほかには何もないからである。
(パラケルスス『奇蹟の医の糧』大槻真一郎、澤元亙訳、工作舎、2004、第1巻より)
初出2010.04.17. 更新2016.06.05.