Stagnation

 

 

(……)これらの患者が訴えている事柄は、一つには、思考と行為のつながりを時間的な継起において捉え順序づけることができないことであり、もう一つには、思考と行為の時間的な進行が一切停止することである。つまりそこでは時間的な関係と区分を把握する能力ばかりではなく、時間的な脱自{エクスタージス}それ自体もまた重篤な障碍をこうむっているのである。/(……)
   テレンバッハ(一九五六年)によって示されたうつ病者の空間性の変化をもまた、われわれは現存在の脱歴史化の現象として理解する。テレンバッハが、メランコリー者にとっては《道具がつねにその背景から遊離し、目の前にばらばらに存在する物、硬化した事物として彼を責めさいなむ》、《純然たる目前存在と化した諸事物は……それら相互の関連性を喪失してしまっている》と述べる時、彼はそのことでもって諸事物への実践的な関わりの変質を言い表わしている。事物が目前存在{フォアハンデン}でしかないものとなってそれらの手許性{ツーハンデンハイト}を喪失しているということは、それらがもはや行為連関に組み込まれていないことを意味している。(……)テレンバッハによれば《このような現存在の空間性が有している性格は……とりわけ浮遊{シュヴァーベン}(漂流)と停滞{スタグナツィオーン}という言葉で》(二九三ページ)示されるという。(……)/(……)
   記憶と注意の障碍がすでに示していたように、躁うつ病者の実存の脱歴史化は将来という次元ばかりでなく過去の次元にも及んでいる。現存在におけるこれら二つの時間的次元の変質は別々にではなく、つねに密接な連関において考察されねばならない。(……)むしろうつ病者の均一な時間性においては、多かれ少なかれ真の将来も過去も失われている。過去、現在、将来という時間的脱自における差別が一部分消滅してしまっている。将来はうつ病者にとっては終りのない現在であるか、過去のものの反復であるかである。それゆえ彼は、そもそも将来においてしか存在しえない物事を、いつもすでに先取りしている。そこで、現在の不幸がいつになっても取り除かれず、決して変らないものであると彼は考えるのである。

(A.クラウス『躁うつ病と対人行動―実存分析と役割分析』岡本進訳、みすず書房、1983、p.207-210)

うつ病者、あるいは、depression の状態においては、時間も空間もともに停滞の相に入ることが実際観察されるわけであるが、両者の停滞はむろん相互に関連がある。身の回りの「諸事物」と己れとの間の「実践的な関わり」は、体験としての時間経過において結ばれるものだからである。コレクターが集めた切手をガラスケースの中に入れて部屋中に並べ、毎日ひたすら眺めているとしたら、それはあたかも、切手コレクションが手許性を喪失して単なる目前存在となりおおせたかのような現象と見まがうばかりでもあろうが、決してそうではない。事物が手許性を喪失して目前存在となりおおせることと、事物の使用価値が剥奪されて代わりに愛着価値が付与されることは、似て非なることである。たいへんわかりやすく喩えるならばこうだ―大切な切手にどこでめぐりあい、どのようにして入手し、愛着価値を付与するに至ったか、そして現在その切手の何をどのように愛しており、将来にわたって愛そうと願っているか、そうした一連の時間的体験性に基づいてこそ愛着価値そのものが維持されるのであって、その維持自体がひとつの魔術であるといえる。その魔術が解けることが、ここで「実存の脱歴史化」と呼ばれていることであって、自分がなぜその切手を愛するに至ったのかが体験としてもはや想起されえなくなり、したがってなぜ自分がその切手を現在愛しているのであるのかも想起されえなくなる、そうすると、そもそもなぜその切手がそこにあるのか、そこにあるということはわかるけれども、そこにそれがある必然性も根拠も何もかも、己れの内部には見いだせなくなり、その切手はもはや、意味もなくそこになぜか散らかっているものとしか感知されえなくなる。その切手と、なぜかその傍らに同じように散らかっている他の切手や、あるいはガラスケース、あるいはピンセットその他のあらゆる事物に関して同じことが起こる。必然的に「それら相互の関連性」も喪失され、身の回りのすべてが意味のないがらくたの散乱と化す。これがつまり全てのものの「キップル化」に他ならないが、このとき、空間内の全てがキップル化すると同時に時間もまた停滞し、「思考と行為の時間的な進行が一切停止」したりもする。なぜならば翻って、思考にせよ行為にせよそれは常に、外界にある何らかの事物ないしものごととの「実践的な関わり」において「進行」するものだからである。あらゆるものとの「実践的な関わり」が失われた状態では人は思考であれ行為であれ何ひとつ「進行」させることはできないし、「維持」もまた一種の「進行」であるのであってみれば、例えばコレクションへの愛着価値を維持することすら、そうなればもはやできなくなる。

この、depression における「無時間化」というのは、様々な局面と絡んで相当に重要な要素である。例えば上の引用の最後のほうに「将来はうつ病者にとっては終りのない現在であるが」というフレーズがあり、この「終りのない現在」というフレーズはどこやらできいたことのあるタームであって90年代以降の日本の若者文化を考えるキイワードのひとつであった(ある)ということなども見逃せない点であるだろうが、他にも、印刷文化なるものとの関連が考えられる。手書きでものを書くときは、字を書くにせよ絵を描くにせよ、少しずつ線を引っ張りながら時間的経過とともにかきつけるのであるが、印刷というのは、活字や版画を並べておいて、一気に「ぺたっと」つまり無時間的に刷るものだからだ。著者が一定の時間をかけて「書いた」テクスト、あるいはデューラーが時間をかけてこつこつと彫った版画、それらの内包する歴史的時間性が、「ぺたっと」刷られることによって失われる。印刷テクストを読むとき、そこに流れているのはすでに私たち読者の時間だけなのである

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