A.Kraus による役割同一性理論
アルフレート・クラウス Alfred Kraus はテレンバッハに学んだ人であるが、その理論は、うつ/躁鬱二元論から一元論への移行の過程に位置づけられるものであると考えられる。著書『躁うつ病と対人行動――実存分析と役割分析』(Sozialverhalten und psychose Manisch-depressiver. Eine existenz- und rollenanalytische Untersuchung. Ferdinand Enke Verlag, Stuttgart, 1977. 岡本進訳、みすず書房、1983)は、テレンバッハ『メランコリー』と同じく、現代の医学界においてはおおむね「古典的名著だが現在の臨床現場において具体的に役に立つとは言いがたい」という評価であるらしいが、少なくとも80年代の日本において、医学専門誌等においてはいざ知らず一般に流通している日本語文献のなかで、少しでも一元論的な匂いのするものが管見の限り他には皆無に等しかったので、メランコロジーにとって長らく重要な必須文献であり続けていた。
クラウスの理論は一言でいうならば役割同一論である。性格類型論的な側面をテレンバッハから受け継ぎながら、性格類型というものを役割同一的な自己の構造の諸タイプとして捉え直すというのが彼の論の骨子のようである。彼は「メランコリー親和型」という言葉は用いず、もっぱら Manisch-depressiver という語を用いる。マニッシュは躁、デプレッシヴは鬱、根本的に躁鬱の波というものを持っている人のことをマニッシュ・デプレッシヴァと呼ぶ。いわゆる単極性ウツの人、あるいはその傾向のある人のことは Depressiver と呼んで、マニッシュ・デプレッシヴァとは一応区別しているが、広い意味では、この Depressiver というカテゴリは Manisch-depressiver のカテゴリに内包されうるという前提であるらしい。らしい、というのは、この Manisch-depressiver という語(ドイツ語)を、邦訳では一律に「躁うつ病者」と訳しているのだけれども、テレンバッハの弟子であるクラウスのこの著書において、manisch-depressiv な病前性格を持った人もまた Manisch-depressiver と呼ばれている嫌いがあるので、いちいちの記述が、発病した患者についてのそれなのか、単にそういう病前性格の者についてのそれなのか、ややわかりにくい部分があるからである。もっともこれはそもそもクレッチマー以来の、性格と病気というものが画然と区別されずになだらかにつながっているという考え方から来る必然的なわかりにくさで、この、「どこからが病気なのか本当はよくわからない」という、現代でも変わりのない状況によってきたるものであると言える。以下、クラウスの役割同一論にもとづくうつ病・躁うつ病の自我構造分析を簡単に見るが、引用では一応、邦訳のママに「躁うつ病者」とする。少なくとも以下の引用箇所においては、「すでに発病した者の」病前性格、について述べているように思えるからである。
躁うつ病者の依存的な共人間的、社会的役割関係は、役割との過剰な同一化によって特徴づけられる。役割との過剰な同一化は二つの意味を持っている。ひとつの意味は、役割をさずける人物の行動期待との距離のない同一化であるが、過剰同一化のもうひとつの意味は、人格が役割を担う者、演ずる者としての自己自身からの距離を失うことである。後者の場合、人格と役割は無差別になり、役割同一性と自我同一性の緊張関係は失われる。(……)個人が彼の役割と距離が取れなければ取れないほど、つまり彼の役割と同一化することが多いほど、その個人は役割をさずける人物の行動期待にそれだけますます引き渡されることになろう。
躁うつ病者の彼の役割への依存性は、ひとつは彼の同一性がほとんどもっぱら役割同一性という形式からなりたっていることからくる。つまり役割同一性が、いろいろな役割同一性を統合しうるような十分な自我同一性に裏づけられていない。このように自我同一性と役割同一性の間に弁証法的な緊張関係が失われているので、役割との内的な関係はほとんど役割との存在同一化に等しい。したがって躁うつ病者にとって社会的な役割はその本来の役割性格を失っている。(……)(p.39)
いわゆる社会的役割、教師だったり学生だったり母親だったり息子だったりする役割、ロールが、自立した主体がそれを演じる、担うというかたちであくまでもあるのが正常だとすれば、このクラウスのいう「過剰な同一化」においては、役者が役者そのものとしてあるようなありかたが存在しないか、あるいは非常に微弱で、何かの役割を与えられてそれを演じているかたちのその人しか存在しない。したがって、何かの拍子にその役割をとりあげられると、その人自身としては空っぽになってしまい、どうしていいかわからない、ひどい場合には足を前に出して歩くとか起き上がることもできなくなる。
こうした自我のありかた、つまり自我が自我自身として存在してはいなくて常に外側からの明らかな保証を必要とするありかたは、あるレベルでは、つまり精神分析的/深層心理学のレベルでは、そもそも社会内に存在しているあらゆる自我がそうであろうとも言えるわけだが――つまり赤ん坊が自我を獲得するためには常に他者の介在が必要であり他者を認識することではじめて自我を持てるという意味ではあらゆる人間が常に他者の保証によって自我を維持しているといえるのだろうが、クラウスのいうのはそういうラカン的な次元の話ではなく、もっと、何というか通常レベルの話である。たとえば何か冤罪をきせられるか不意に誰ともしれぬ人にさらわれて全く見知らぬ土地の、何にもないがらんとした部屋に裸でとじこめられ、看守と言葉も通じなかったりするときに、ふつう誰でも混乱するだろうし、ここにいるオレはいったいオレなのかとか思うだろうけれども、それでもがんばって、ともかくオレはオレである、ひどいことになったがなんとかしようというところへやがて自分を持っていって生きのびられるかどうかという、そういうレベルの話である。誰にせよそういう極限状態では自我が怪しく危うくもなろうが、普通は、例えば引っ越して住まいがかわったとか、学校のクラスで席の並びが変わった程度ならそこまで危うくはならない。クラウスのいう過剰な同一化というのは、例えば隣の席の友人が三つ置いた先の席へ移っただけでそれが極限状態と化すという程度に、自我同一性が微弱であるという、そういうレベルの話、つまりあくまでも役割同一化が「過剰」なだけであって、過剰でさえなければ役割同一化そのものは至って「正常」なものごとである。
たとえば几帳面、仕事熱心といった「性格」がどこからくるかということについてクラウスがいうには、几帳面でミスをしないとか仕事熱心といった性質は、一般に、賞賛されるべき良い性質、美徳であるとされている。熱心に仕事をすればほめられて、認めてもらえるという通念がある。他人に依存しているので、ほめてもらって認めてかわいがってもらうために、仕事熱心であろうとする。そういう傾向はこれまた誰でも多かれ少なかれ持つのだが、Manisch-depressiver においては、この傾向が「過剰」である。わたしというものがいて、そのわたしが、仕事熱心であることを選択してそのように行為するのではなくて、仕事熱心という姿勢――「内的姿勢 Innere Haltung 」と呼ぶ――が過剰になり、仕事熱心であるという価値そのものに同一化したかたちにおいてのみ、わたしというものが存立している。この場合は、わたしというものが、仕事熱心な人という役割自体と同一化していて、その役割を与えてくれるのは特定の人というよりは社会通念的価値観そのものないしその価値観を保持する社会そのものであって、役割同一性の過剰というよりは価値同一性の過剰という言いかたがなされる。「几帳面である」という一般的な姿勢であれ、「父親である」や「教師である」といった社会的地位に基づく姿勢であれ、あるいは「○○ちゃんの友達である」姿勢であれ、何らかのかたちで選択された姿勢、厳密にいえば選択したのではなくて与えられた、ないし降りかかってきた姿勢をおのが姿勢とし、おのが姿勢としたその外的ないし内的姿勢そのものに過剰に同一化することによって、一見したところの自我同一性を保持しているとみえるのが躁鬱タイプの自我であって、それはほんとうは自我同一性ではない、彼に固有の人格というものはなく、そのつど「几帳面さ」とか「父親性」とか「教師性」とかそういう無名の、アノニムな姿勢、アノニムな役割だけがあって、その姿勢が過度ゆえに一見個性のように見えるけれども、本当はそこに個性が発現しているのではなくて、アノニムな役割があたかも物質のように発現しているにすぎない。そこでは役割というものは、本来の意味での役割、つまり、社会においてある役割を果たす、という意味における役割意義を失ってしまって、その人がそのロールをプレイしていますという単なる指標、そのひとの自我の表示にすぎなくなっている――と、そのような話であり、この点で、単極性 Depressiver も、双極性 Manisch-depressiver も根本的に同じ自我構造を持っているというのがクラウスの見解である。こうした、与えられた社会的な役割ないし内的姿勢に過剰に同一化する傾向は、従来はもっぱら、単極型のDepressiverに付与されてきた「性格」であったのだが、クラウスは同じ傾向を Manisch-depressiver にも当てるのである。
躁うつ病者の行動様式の躁病極とうつ病極を役割分析的、実存分析的に比較すると、両者の内容的な対極性にもかかわらず構造的な共通点が取り出される。いずれのうちにも、正常行動を逸脱し、類型学的に意味深いものとして、そのつどとられた内的姿勢(ツット)との同一化の非常な亢進が認められる。(p.69)
では「躁病極」における様相に関する箇所を引いてみよう。
(……)他者による脅威が突然消えうせたようになる。以前の躁病者にとって彼自身の自由が他者の自由によって耐え難い程までに制限されていたのに対し、今や他者との境界なき合体や逆に他者にまったく依存しないという意識の形で、自己欺瞞的な無制限の自由の体験が現われる。しかしこの《妄想的同一性》は魔術的に変容された共存在関係の枠の中でのみ《保たれ》うるがゆえに、このような同一性は躁病性の情動がつねに維持されることに依存している。躁病者はしたがって、他者との境界のない合一や愛情的な結びつきを確かめるためにであれ、また攻撃的に他者から離反することで彼が他者に依存していないことを自分自身に証明してみせるためにであれ、共人間的な関わりを追求しつづける。躁病者の殆どの行為もまた、他者との境界のない結びつきがすべてをやりとげることを彼に可能にすることによって、或いは彼の周囲が彼に対して向ける抵抗を打ち破ることができるほどに自分が強い存在であるということに基づいて、彼を強化する意味を持っている。(p.127)
この引用箇所における、自由とその制限、「魔術的に変容された共存在関係」「共人間的な関わりを追求しつづける」という諸点については、また別枠において述べるので、今は、ここにいう躁病者――病的 Manie を発症してしまった者――が何といかに同一化するかについて、クラウスの考えに沿って整理してみる。彼によれば躁病者の同一化パターンは大きく二種類に分けられる。「他者との境界のない合一や愛情的な結びつきを確かめる」方向において同一化を行うタイプは「明朗性」と呼ばれ、「攻撃的に他者から離反することで彼が他者に依存していないことを自分自身に証明してみせる」方向のは「易怒性」と呼ばれる。どちらのタイプにもせよ、彼、すなわち Manisch-depressiver は基本的に自我が存在しないか脆弱すぎて通常あまりにも全面的に他者の認知に依存しているがゆえに、ときどき突発的にかつ定期的に、こうした他者依存のありかたに自ら反逆したくなり(この衝動をテレンバッハは「痙攣的突破の衝動」と呼ぶ)、その結果、反逆的なその内的姿勢――《妄想的》と呼ばれる――そのもののほうに、今度は過剰に同一化してしまうのである。このとき易怒型がとる反逆的内的姿勢は、極端に言うならば「他人など誰が必要とするものか、みんな馬鹿ばっかりだ、真実を見通せるのはオレ一人だ、オレの真実に従え!」という唯我独尊的姿勢であって、これは「彼の周囲が彼に対して向ける抵抗を打ち破ることができるほどに自分が強い存在であるということに基づいて、彼を強化する」姿勢である。一方の明朗型は、他者依存ということそれ自体に最高の価値づけを与え、全面的に肯定する方向に動く。「ぼくたちはみんなお互いに依存しあい、支えあって共に生きているのです、人生は世界は何てすばらしいんだ万歳!」という博愛的姿勢であって、これは「他者との境界のない結びつきがすべてをやりとげることを彼に可能にすることによって、彼を強化する」姿勢である。博愛型であれ唯我独尊型であれどのみち同根であって、両者は混ざりあうこともある。「みんなで共に生きましょう」であれ「オレに従え」であれどっちみち、社会、あるいは世界、あるいは宇宙がおのれの眼下に、足下に、あるいは手中にあると思うのであり、宇宙をおのれは一望できていると思い、おのれが一望しているその宇宙、ないし、それを一望するという役割ないし一望することの価値、と、おのれとが、過剰に同一化する、この「過剰な同一化」という点、すなわち、何らかの価値ないし役割に過剰に同一化することで自己を維持ないし防衛するという点に関しては、鬱極においても躁極においても変わりがない。ソウとウツの違いは、要するに端的に同一化の対象の違いであるという、それがクラウスの一元論の要諦である。
これをさらに敷衍するならば、鬱極と躁極における同一化対象の違いは、その対象たる役割や価値の規模の違いに他ならないだろう。細かい個々の社会的役割や規範価値に同一化するか、あるいは、世界とか宇宙とかいう気宇壮大なところを展望することの価値へ同一化するかという違い――そのように考えると、ルネサンスにおける「メランコリーの復権」の構図がよりいっそうわかりやすくなる。従来「メランコリー属性のひとは地道に黙々と鉛管を繋いでいるべきである」という役割を与えられて、よんどころなくそれと同一化して一生懸命に鉛管を繋いでいたものが、あるとき反逆して、与えられていた限定的役割の桎梏をのがれて、オレは自由だと叫びながら全世界を神にかわって展望し、測りつくそうという内的姿勢との同一化へ移行したのである。その同一化において、トータリティへのほとんど燃えるような切望、そこへ向かって至福的に営まれる営為というものがありありと観察されるのだが、その Totalität が、記憶術系の絵図やフィチーノの著作にみられるように、「こんなにたくさんのものごとが有機的に調和的にかかわりあって世界はできているんだ、すばらしい!」という形である場合は、つまりそれは明朗性である。一方、「オレの観望する秩序に全員従え」といって他人にみずからの規範や価値観を押しつけるべくオルグなどを始めると、これは易怒性である。いずれの場合も、双極Ⅱ型の軽躁状態にとどまっている限りはそれなりに生産的でありえ、特に明朗型の場合は極めてブリリアントな創造+想像性を発揮もするが、病的 Manie の域に達するとたちまち問題化する。易怒型の場合はそこらの人をむやみに誹謗したり、ことによると他国を侵略したり異民族を虐殺したりしはじめかねず、これはたいへんな病気だということになり治療の対象になる。つまり、アウシュヴィッツとかそういうものごとが近代の必然的帰結であるという近年の考え方は、ルネサンス的な明朗性Ⅱ型軽躁状態と、ファシズム的易怒性Ⅰ型躁状態とを同じ病理において捉えようとするこれまた一種の一元論に他ならないが、他方また別の箇所で述べるように、安易な一元論は臨床的には極めてナイーヴであるとされるので、それはそれで怠りない注意を要するだろう。
当サイトにおける綜芸綜智のもくろみはむろん、明朗性Ⅱ型軽躁状態をめざしている。