初期近代におけるソーシャル・ネットワーク・ミュージアムの展開について(P.フィンドレンに基く)

 

 

ミュージアムのモザイクは、いかなる「断片」から構成されていたのだろうか。言葉の訓練として始まるボナンニの示唆的な類比は、「ムーサエウム」の定義の根幹をなす概念的な枠組みについての重要な側面、すなわち類型をつくりだすムーサエウムの能力を明らかにしている。相異なるオブジェを選択し並置することによって、初期近代の博物学者たちは、あらゆる蒐集行為の根底に横たわる、解釈のプロセスを反映する「モザイク」を形成した。知識の広大な領野を概観しつつ、彼らは、世界についての有意義な理解を発展させる一助となる項目を選択した。彼らの知的推定がいたるところで彼らを導き、どの蒐集収蔵品が博物学者たちにもっとも興味を抱かせるかを決定し、そこから引きだされる意味を統制した。そしてついには、具体的な知識の獲得によって、そもそも学者たちを蒐集へと導いていたイデアをも変容させるにいたった。16世紀と17世紀の博物学者たちを蒐集へと駆り立てていたのは何であったのかを理解するためには、まず第一に、世界を把握しようとした彼らの哲学的な大志を見極めなければならない。自然のオブジェをひとつの場所に集結させることで、彼らはいったい何を得ようと望んだのだろうか。彼らの百科全書的な企図を実現させるために、彼らはいかに物質的文化を利用したのだろうか。

(ポーラ・フィンドレン『自然の占有 そして初期近代イタリアの科学文化』伊藤博明・石井朗訳、ありな書房、2005、p.80. 強調引用者、以下同)

ここでは、P.フィンドレン博士の浩瀚な書物『自然の占有』のうち主として第二章「パラダイムの探求」をなぞりながら、「メランコリーの復権」後間もないころのコレクション文化隆盛の様相を学ぶ。ミュージアムの歴史的展開は、どの局面ひとつとっても、博士自身が言うように「決して単純でもなければ」「自明でもな」いに違いないが、「世界の成り立ちを知りたい」というファウスト的欲求―それはまさしくルネサンス人文主義的欲求に他ならない―が、蒐集というメランコリックな営為に人々をいかに邁進させたか、そしてその営為のブリリアントで突破志向的な軽躁的拡張がいかにたやすく社会的価値同一性希求の構造の中にとりこまれていったか、その伸縮運動のあきらかなモデルケースのひとつを、ここに見出すことができる。

「ミュージアムは」、とイエズス会士クロード・クレメンスが書いている、「きわめて厳密には、ムーサたちが住まう場所である」。初期近代の蒐集家たちの脳裏から決して去ることのなかったのは、自分たちが関わっている活動と、その活動を遂行する場所を明確に定義する能力であった。蒐集家たちは人文主義者として、言葉のもつ力を称揚し、彼らが過去に負っている恩義に謝意を表すために、精緻な語源学や系譜学を紡ぎだした。ある単語の起源を知るということは、その単語のもつ視野を制限することではない。もしもなんらかの起源があるとすれば、それによってその単語の複雑さは増幅される。ミュージアムそれ自体の厳密な境界を超える活動様式を表すカテゴリーとしての、「ムーサエウム」(musaeum)というイデアは、その当時の百科全書的な傾向を示す適切なメタファーであった。「ムーサエウム」という用語についてのもっとも抗しがたい魅力は、この用語が広範囲に及ぶ言説の実践の中に挿入されうる能力であった。ボローニャにあるアルドロヴァンディの自然の珍品奇物のコレクションは同時に、「陳列館」(museo)、「書斎」(studio)、「劇場」(teatro)、「小宇宙」(microcosmo)、「文書館」(archivio)、そしてほかの多数の関連する用語で呼ばれており、それらのいずれもが、彼のコレクションが抱くさまざまに異なる目的を形容するとともに、さらに重要なことには、各構造間の類似性をも暗示している。「ムーサエウム」という用語は、その独特な包括力のおかげで、「図書館」(bibliotheca)、「宝物室」(thesaurus)、「万象殿」(pandechion)というような哲学的なカテゴリーと、「書斎」(studio)や「実験工房」(casino)、「陳列室」(cabinet)、「画廊」(galleria)、「劇場」(theatrum)というような視覚的な構造物とを交差させ、混淆させることを可能にした。こうして「ムーサエウム」は、初期近代のヨーロッパの知的で文化的な生の重要な局面を描写する豊かで複雑な用語法を創出したのである。ミュージアムは「書物の部屋」でもあれば、「宝物の部屋」でもあり、また「合切蔵」でもあった。つまりそれは、見るための場所、「宝物館」(gazaphylacium)であるとともに、満たすべき空間、「豊饒の角」(cornucopia)でもあった。同時に「書斎」にして「田舎家」、「陳列室」にして「画廊」、しかも「劇場」でもあったミュージアムは、貴重な品々を収める空間がさまざまに理解されていたということを反映している。私的空間と公的空間とを媒介するものとして、さらには観想的実践としての学習という修道院的な概念と、テクスト上の戦略としての蒐集という人文主義的な概念と、コレクションによってかなえられる威光と誇示という社会的要請のあいだで、「ムーサエウム」は、後期ルネサンスとバロックの文化にとって中心的イデア、イメージ、制度を包括する認識論的な構造となった
   蒐集家たちによる「ムーサエウム」という言葉の強度かつ精密な吟味は、彼らが言語のもつ想像力豊かな可能性を正しく認識していたことを強調している。「ムーサたちの家」というギリシア的イデアや、アレクサンドリアの有名な図書館である「ムーセイオン」(mouseion)に端を発するこの言葉がたどってきた道程は、ミュージアムが詩的構成物から、この体系を通して蒐集家たちが自らの世界を探究し解釈する概念的体系へと変容したことを示している。新しい活動は新しい定義を必要とした。「ムーサたちの崇められる場が、ムーサエウムと呼ばれるのです」と、フェルディナンド・コスピのミュージアムの1677年のカタログ序文で、テオドーロ・ボンディーニは説明している。「同様にあなたはご理解なさることでしょう。古代人の多くは、詩や歌の主語のためだけにムーサという名を承認したのですが、それにもかかわらず、その名のもとにあらゆる知識を組みこもうと望む人もたくさんいたということを」。あらゆる学問分野の結び目としての「ムーサエウム」という、ボンディーニによる意味の拡張は、とりわけ百科全書的な蒐集家たちの活動について同時代の評価と対応している。「私の小さなミュージアムもついにその名に値するものとなりました」と、キルヒャーの著作を寄贈されたジャコモ・スカフィーリは、その礼状に記している。「貴方の偉大なる労作にして贈りもの、『普遍的音楽学』(Musurgia universalis)のおかげで豊かとなり完璧となったいまや、神父様、たとえ、かりにそこには貴方の著作ただ一冊しかないとしても、ムーサたちの部屋と呼ぶのがふさわしいでしょう。というのも、それはムーサたちすべてを含んでいるのですから」。イタリアに最初のミュージアムが出現して一世紀ののち、蒐集という言語は、キルヒャーのような蒐集家たちの企図を、学者たちが知識を貯え展示する部屋を意味するようになっていた「ミュージアム」という言葉で称するほどに発展を遂げていた。このような文化的推移をさらに先へとたどるならば、キルヒャーのもう一人の文通者がその記憶をたぐり寄せて、「この世の希少でもっとも精妙な品々が保管されているギャラリー」と想い起こしている。このように、「ムーサエウム」(musaeum)の定義と再定義、さらにはそれに付随する語彙は、百科全書派を定義するための最初の出発点となったのであり、そのミュージアムは、所有者があらゆる知識の支配者であることを示していた
   17世紀の終わりまでには、蒐集家たちは、それが描写する活動の範囲をそのまま映しだす複雑さをもつ、当惑するほど夥しい語彙を蓄積した。イエズス会士フィリッポ・ボナンニは、ローマ学院のミュージアムを、「もっぱら壮麗さのためだけにつくられた」コレクションや自然科学的組織を主に指し示す用語である「ギャラリー」として分類することを拒絶し、このキルヒャーのコレクションを「ムーサエウム」と呼ぶことを好んだ。ボナンニは自分の選択を正当化するのに、古典的資料から豊富に引用してくるばかりか、ボナンニにとってもっとも魅力的な百科全書的イメージを与えてくれる、17世紀フランスの学者ドミニク・ドュ・カンジュの文献学的な著述に根拠を求めている。ドュ・カンジュのミュージアムとモザイクとの誤った語源学的比較をそのまま引き継いで、ボナンニは、ローマ学院のミュージアムを次のような用語で定義した。「われわれはドュ・カンジュとともに次のように言おう。『〈ムーサたちの仕事〉(Opus Musiuum)はさまざな色彩の小石を寄せ集めてつくられたものという意味を暗に含んでいる』言葉であり、それゆえ、博学な人がそぞろ歩きするために設えられた場には、モザイクによって目を喜ばせるばかりか、精神を豊かにするさまざまに多様な事物が存在するだろう」。モザイクとしてのミュージアムは、幾世紀もの時の経過のうちにすべてがばらばらの状態におちいってしまった宇宙論(cosmologia)の諸断片を寄せ集めた。知りうるすべてのイデアと蒐集収蔵品を「ムーサエウム」という標題のもとに組織化することによって、蒐集家たちは、知識の危機を甘受しつつも、ミュージアムを建造することでその危機を解消しようと思い描いていたのである。(p.77-80)

この「知識の危機」とは、同書「プロローグ」(p.11-25)中に、「ベーコン、デカルト、ガリレオの新しい実験哲学が勃興した17世紀、古代の自然観は敵対する批判に応えるという兆戦に直面していた」と記されているあたりの事情を意味するだろう。「……にもかかわらず、博物学者たちはいまだにこの自然観を保持しようとしていた。「新しい」哲学の技法を古いそれに奉仕させることによって、アリストテレス主義の博物学者たちは、批判的統合の場としてミュージアムを計画し」、「古いシステムを覆すというよりも、「その体制を保持」」しつつ、その限りにおいてその営みの拡張にいそしんでいた。それが、「17世紀の半ばには、ミュージアムは「新しい」科学の象徴となり、イギリスの王立協会、フランスの科学アカデミー、そしてのちにはボローニャの科学協会のような科学組織に統合されることになる」のだが、「そのまえの世紀においては、しかしながら、ミュージアムはアリストテレスの自然哲学とプリニウスの博物学の再活性化を象徴していた」、すなわち上記の長い引用中に記されている古いタイプのミュージアムでは、「新しいものを形成したのではなく、古いものを最初から構成し直」すことにこそ主眼が置かれていたのであるということだ。
   あからさまにアリストテレス主義を標榜するか否かにかかわらず、この「世界一望」ないし「総覧」の飽くなき試みに当時の人々がいかに没頭したか、その具体的で活気ある様相を目のあたりにするために、該博な文献知識を詰め込んだフィンドレンの著作を延々と引用し続けたくなり、引用し続けることで足りる(という以前に要はこの著作を読めば足りる)という気持ちになるのは、ひとつには、この大部の著作そのものが一種の「ミュージアム」性を帯びてい、思わず頭を垂れずにはいられない博識ぶりで次々と繰り出される文献とそこに記された歴史的事実がページのところ狭しと陳列されているさまが圧巻である(そもそも学術書というのは本来そういうものでもあろう)からだが、「プロローグ」に述べられているところによれば著者の「目的は一貫して、博物学という学問分野を全体として―少なくともそれがイタリアでとっていた形態において―再構築することにあ」って、「役立つ豊かな一次資料を駆使して、16世紀と17世紀における自然の蒐集行為の幅広い肖像をスケッチしようと」するのだといい、「失敗に終わったこの百科全書的な夢物語について語ることは、かなり込み入った試みとなる」といい、「いかにすればわれわれは、これらすべての自然学者と蒐集家とパトロンたちを一堂に会する{ママ}ことができるのだろうか」と問う。それはまさしく、この初期近代に活躍した人文主義者たちが生きていた「世界」をいかに蒐集し、総覧的に記述できるのか、という問いに他なるまい。そして博覧強記というありかたに対して今なお私たちがおのづから覚えずにはいない崇敬の念もまた、著者が活写しようとしたこの時代の総覧文化にこそ胚胎していたのだと言えるかもしれない。

アルドロヴァンディもキルヒャーも、ひとつの哲学的な枠組みに閉じこもっていたわけではない。それどころか彼らは、その時代の折衷的な傾向を映しだすかのように、自然への異なるアプローチを結びつけている。古代の権威に対して健全な敬意を払いつつも、彼らは、自然についての新しい哲学を熱心に受け容れ、知識を開放することで彼らが支持する知的伝統の可能性を促進し、知識を確実なものとしていったのである。多くの同時代人たちと同じく、彼らの新しさは、根本的に新しい何かを創出したというよりも、知識のより古い形式を再び組み立て直したことにある。アリストテレスを再び構築し直しながら、彼らはまたプリニウスを再び組み立て直し、前者の哲学を改めつつ、自然の研究のより中心的な役割を後者の著作に与えた。(……)ルネサンスとバロックの博物学者たちは、それぞれ異なった仕方ではあれ、古代の博物学のパラダイムを解体するよりもむしろ拡大することを選んだ。しかし、この構造を侵害する恐れのある新しい影響力をも容認する彼らの決定は、まさしくそれを根拠のあやふやな壮大な殿堂としてしまったのである。
   博物学の視野を定義していた古典的な枠組みを越えて、ほかの自然を扱う哲学領域も、初期近代という時代に特有の流れとして、蒐集家たちを招き寄せた。(……)アルドロヴァンディは、「一組」の原理に基づくのではなく、異なる多数の哲学的システムを織りあわせることによって探究を定義しようとするルネサンスの百科全書主義者たちに共通の傾向を証言している。 (p.81-83)

(……)博物学者たちは、伝統的なものから、秘教的なもの、実験的なものにいたるまで、この時代に特有の多くの異なる軌道の上を動いていた。彼らがこうした分岐した路を歩んでいたとはいえ、彼らはすべて好奇心という共通の特性を分かちもっていた。好奇心は博物学者たちを世界の内部へと誘った。そして好奇心は、彼らを驚異と経験という観点から知識を定義するよう導いた。「驚異」は、予期しないものとの直面が惹き起こすさまざまな感情をその中に含み、「経験」は、そうした遭遇の反復によって獲得される知識を定義した。旅行と探検の最初の高まりの申し子であるアルドロヴァンディは、好奇心と彼の百科全書主義とを結びつけ、その両者を全体的な知識獲得のための探求と定義した。(……)二人とも、好奇心に導かれて努力を重ねた。ミュージアムは、権威=典拠(オーソリティ)と好奇心のあいだで、過去の叡智への敬意と現在の可能性への昂奮とのあいだで姿を現した弁証法から生み出された。『学問の進歩』(Advancement of Learning,1605)の中でフランシス・ベーコンは、知識を「飽くなき探求心が横たわる寝椅子」と定義した。ミュージアムは16世紀の末以来、「飽くなき探求心」を抱く大多数の者たちが集う場となった。ミュージアムの中で、博物学者たちが想像しえたのは、世界中のあらゆるものに完全に精通しようとすることにほかならず、そしてこれこそが、彼らが努力を傾注した最終的な目的であった(p.85-86)

「根拠のあやふやな壮麗な殿堂」とは、身も蓋もなく言いかえれば「何でもアリの壮麗な殿堂」ということに他なるまいが、実際、彼らは何でも蒐めた―物質でできた事物の蒐集にとどまらず、言語を集め、方法論を集め、学問の形式を集め、パラダイムを集め、それらの「展示」の形式を集めた。「ミュージアム」それ自体さえも蒐集の対象になったかのごとくであり、コレクションのコレクションのコレクション……の際限のない拡張と複層的な「組み立て直し」の中で世界はその無限の探求可能性を彼らの「好奇心」の前へ「壮麗に」差し出していた。「この世の中で記憶に値するすべてのもの、というプリニウスの百科全書的な自然の定義」を拡大的に「組み立て直す」ならば、言語も、パラダイムも、ミュージアムもまたむろん「自然」の一環として位置づけられよう。「ミュージアムは、自然をひとつの連続体として表象すべく設計されていたのである」(p.13)。「展示」されたひとつひとつの要素は互いにむしろ不連続的なものとしてありつつも、それらを「組み立て直す」ことによって「全体」としての連続性へ接近し、それを「表象」することへと「飽くなき探求心」を誘う、そのような場の「設計」は、フラクタル図形にも似たミュージアムの無限自己増殖を可能にしただろう、その重要な触媒のひとつに当然、書物も数えられた。

16世紀と17世紀の博物学者たちは、いくつかの共通の傾向を分かちもっていた。彼らは権威を重んじ、自らの哲学的思索を高度にキリスト教化された枠組みの中に包摂した。中世の先導者たちとは対照的に、彼らは、知識の百科全書が無限に浸透しうるものであること、複層した影響に対して閉じられているというよりも開かれていること、連続的というよりも不連続的であることを理解していた。彼らはまた、自然をひとつのテクストと理解していた。「自然という書物」を読むことは、初期近代の博物学者たちにとって主要な活動のひとつであった。蒐集は、書物というメタファーを再活性化させ再定義するのに役立つ活動であった。(……)
   自然と学識という一対の書物に対して初期の人文主義者たちが抱いていた小心さは、16世紀の終わりごろまでに、新たな信頼にとってかわっていった。古代哲学の諸言語を再活性化させ、ペトラルカの文献学的問題を解決する彼らの能力に勇気づけられて、博物学者たちは、自然の言語を解読するために彼らの人文主義的鍛錬を役立てた。ドメニコ海の植物学者アゴスティーノ・デル・リッチョは、それらの読みやすさを促進するため、自然のあらゆる部分に対してアルファベットを指定した。ガリレオは、自らが自然の書物に精通したことを、ライヴァルであったフォルトゥーニオ・リチェーティがアリストテレスの全文献に精通したことと対比し、両者がいかに両立しがたいものであるかを強調したが、ほとんどの博物学者たちにとって、こうした区分は想定しえないことであった。神以外のいかなる権威=典拠の著述も火中に投じてしまったパラケルススとは異なり、自然に関する権威者たちの崇敬すべき言葉は探求のあらゆる段階で博物学者たちを導いた。これは、アルドロヴァンディとキルヒャーの伝統の中で仕事をしていた博物学者たちははっきりと認識していた負債であった。たとえばボナンニは、「貝を集めること/読むこと」(Conchas legere)というキケロの格言を想起しつつ、貝を蒐集する過程を読むことのひとつの形式として特徴づけた。ボナンニは同時に、アリストテレスの博物学の綱領に対するあらゆる攻撃を論駁するために、オウィディウスとキケロのレンズを通して、また彼自身が巧みに設計した顕微鏡のレンズを通して、「貝を読んだ」。貝を集めることと貝を読むこととの相互作用は、自然をテクストとしてみようとする願望をさらに強めた。ボナンニの宇宙においては、アリストテレスやプリニウスの著作のような規範的なテクストを読むことは、博物学者たちに自然を読むための準備をさせたのである。(p.86-88)

(……)たとえばアルドロヴァンディは、自然と人間の全経験をカタログ化したのと同じ情熱をもって、主題による図書館の編成を詳細に検討した。ゲスナーと同様、アルドロヴァンディも、自らの自然の百科全書が知識の百科全書に基づいていると考えていた。このようにして、あたかも書籍のタイトルそのものが象徴的にその内容を把握させるかのように、参考文献が蓄積され、諸学の標準的な分類に従って書籍は編成された。より一般的には、蒐集家たちは、自然の「詳細」に、すなわちアリストテレスが奨めていた知識の形成に寄与する個別のデータに光を当てるために物質文明を利用した。この企ての結末にあったのは、世界を蒐集することによって、人間は最終的に普遍的な真理に到達するかもしれないというとらえどころのない期待であった。
   多くの博物学者と同じく、アルドロヴァンディも、ほかの哲学や医学の伝統を自由に借用していた。医学に関心のあった彼は、ガレノスの言葉に格別に重きを置き、自然を正確に知りうるためには、良き自然哲学者であると「同時に」、良き医師でもあらねばならないと宣言した。自らの図書館の想像上の分類を思い描きながら、アルドロヴァンディは、彼の書物を参照する学者たちにそれら三者の強い類縁性が理解できるように、自然哲学と医学のあいだに博物学を配置した。ガレノス、ティオスコリデス、そしてアヴィケンナは、自然の利用と、その知識の医学的必要性について多くの洞察を加えたが、しかし、それを哲学の地位にまで高めたのは、博物学のアリストテレス的枠組みであった。古代の医学の著作家たちは、彼がのちに自然の研究に適用することになる、ガレノスがくりかえし強調した特性である「経験」についてのアルドロヴァンディの理解を高めた。アリストテレス主義はまた、彼の探求に哲学的な正当性をもたらした。この文脈においてわれわは、その編成が彼のミュージアムに集められたオブジェの意味を解く鍵を提供する、彼の「総観一覧表」(synoptic tables)にアルドロヴァンディが与えた重要性を想いだす必要があるだろう。「16世紀後半にテクストに共通の特徴となり、それ自体が文学的形式となった」ところの「図表/一覧表」(tabulae)と同様に、アルドロヴァンディの一覧表は、自然と知識の相異なる部分のあいだの関係を要約していた。まさしくこのアリストテレス的な訓練をもってしてはじめて、訪問者たちに、ミュージアムに展示されたオブジェのあいだの関係を理解させることができたのである。1572年の終わりにボローニャの博物学者が書いているように、「『すべての生物と無生物の種属を区分する普遍的方法』において、われわれは、既知のすべての可視的なものが、それらを正しく定義し記述するために、もっとも近い属に分類されるように、[これらの事物の]輪郭をはっきり示し詳細に説明した」。アルドロヴァンディにとって、記述は定義を、定義は秩序を、秩序は知識をもたらしたのである。(p.91-92)

アリストテレスが、自然を蒐集するための形式的な構造と哲学的な趣旨を提供したのに対して、プリニウスの『博物誌』(Naturalis historia)は、既知の世界をさらに遠くまで範囲を広げて探索し、その驚異をカタログ化するよう博物学者たちの好奇心を鼓舞した。フェデリコ・ボッロメーオは『ムーサエウム』(Musaeum,1625)の冒頭に次のように書いている。「この著作を書き始めるにあたり、私はまず、ほかの誰よりもプリニウスを念頭に置いている。というのも、私は彼と競わねばならないと望んでいるわけではなく、それはあまりにもばかげているし無礼なことだ、そうではなくて、私の気持ちに反して、彼のとりあげている例が卓越しているからである」。プリニウスを読むことによって博物学者たちは、宇宙内のあらゆるものを包含する能力において博物学という範疇がいかに広大で膨大なものであるかを思い知らされた。アルドロヴァンディは言っている。「太陽の下にあるもので、三つの類のいずれかに分類されないものはなにもない。すなわち、大地の内部から掘りだされた無生物や化石、植物、そして動物である。人工物でさえ、[それを構成する]素材に応じてこれら三つの類のいずれかに含まれる」。プリニウスに従って、自然の蒐集家たちのほとんどは、自らのミュージアムに芸術、古物、科学機器を所有していた。メルカーティでさえ、大理石の例として、ベルヴェデーレの有名な彫刻のいくつかの記述をその『金属学』(Metallotheca)に含めている。
   プリニウスが要求しているのは、総観的というよりも拡張的な知識へのアプローチである。彼の自然に関する哲学は、もっとも本質的な意味において、アリストテレス的な哲学の前提を完全に侵食している。アリストテレスは、博物学者たちが自然を第一原理に還元し、そうすることで自然についての形式的な哲学を創出することを支えたが、これに対してプリニウスは、博物学者たちを世界の特殊性と無限性に夢中にさせた。新世界の植物相や動物相の観察者たちはなによりもまず、それらの驚くべき特性がプリニウスを「ますます信用に値するものに」したということに気づかされた。プリニウスは、頻繁におこなわれるようになった旅行によってヨーロッパ人が発見した新奇なものの案内役を果たしていたのである。アリストテレスが、宇宙を永遠なるものとして、時間を超越した真理によって充たされたコスモスとして記述したのに対して、プリニウスは、自然についての知識の増大をよりうまく収容しうる枠組みを提供することで、宇宙の広がりを博物学者たちに示したのである。
『博物誌』の構成は、蒐集家たちに、いかなる自然の細部も無視できるような無意味なものはなにもないということを気づかせた。その構成はまた、簡潔さではなくて統合こそが百科全書主義者の存在証明であることを示唆していた。プリニウスは、その記念碑的な著作の序文で次のように概説している。

ドミトゥス・ピソが述べているように、書物ではなく宝庫(thesauri)が必要なのであるから、われわれは、約2000冊―そのほとんどは内容の難解さゆえにこれまで研究者によって論及されることがなかった―を読破し 鍵、これまで調査した100人の著作家からとりだした2万の考慮に値する事象に、先駆者たちに知られていなかった事象や、それ以降の経験によって発見された多くの事象を加えて、全36冊にまとめた。

蒐集することの貪欲な本性は、いまやプリニウス本来の概算二万という数をはるかに上回る、「考慮に値する事象」のすべてをカタログ化しようとする類似した欲求を顕わにする。ルネサンスの博物学者たちは、自らの創意と洞察力への挑戦として、まずプリニウスの序文を読んだのである。プリニウスが古代の人々を凌駕しえたのであれば、このローマの百科全書主義者を打ち負かすことは、人文主義者の野望にふさわしい称讃されるべき目標であった。/(……)
   蒐集家たちはさらに、プリニウスを真似て、自らを文字どおり知識の探求に没頭している人物としてあらわしている。ヤコビーノ・ブロンズィーノは、アルドロヴァンディを「自然の事物の研究に全精力を注いでいる」と描写したさい、彼は自らの素材の中で仕事をする蒐集家の百科全書的な情熱を巧みに要約している。自然の全事象を占有しようとする欲望に駆られた博物学者たちは、そのすべての活動を蒐集を中心に組織した。「私は、あなたが管理しておられるすばらしいものを見たいと望んでおります」と、アルドロヴァンディはフェッラーラのエステ家の医師アルフォンソ・パンチョに書き送っている。「私は、新しい事象を学ぶのにいまだ満足してはおりません。何か特別のものをお送りしない週―日とは言わないでおきましょう―はひとつたりともないほどです。それは驚くべきことではありません。というのも、この自然の学はわれわれの知識と同様に無限なのですから」。生涯を蒐集に捧げる博物学者たちは、彼らが所有する情報とオブジェを組織化しようと奮闘した。プリニウスは、数多くの書物から情報を引きだすことによって彼の博物学を創出したのであり、この技術は、16世紀の人文主義者のあいだで流行を見た。アン・ブレアが指摘しているように、多くのルネサンスの学者たち、とりわけ百科全書的な計画に従事した学者たちは、よく知られている書物を、読んだ事柄を選り分けたり組み換えたりすることで、将来著作を書くさいに利用していた。この慣例については、アルドロヴァンディも例外ではなかった。
   プリニウスによるギリシア語の署名のリストから引いて、アルドロヴァンディはもっとも大規模な自分の計画を、その名のもとにほかのすべての計画を包摂する『知の万象殿』(Pandechion Epistemonicon)と名づけた。彼はそれを「人が知りたいと思い、組み立てたいと思うすべての自然や人工の事物について、詩人、神学者、法律家、哲学者、歴史家……がこれまで書いてきたことならなんでも見つけだすことのできる、知識の宇宙の森」と定義している。アルドロヴァンディが実際に蒐集に携わっていた半世紀にわたって、彼は一貫して自分がつくりあげた空間を充たそうと努めた。言葉、イメージ、そしてテクストはすべて、彼が視覚化した知識の普遍的な百科全書の中へと統合された。アルドロヴァンディの「万象殿」(pandechion)の遍在は、それ自体、言葉の柔軟な使用法の中で証明されている。他の百科全書的な用語と同様に、その後は、「豊かさそのものの概念ばかりか、その豊かさが見いだされる場所をも、さらに厳密に言えば、場所とその内容を」含むように編成された意味論的な構造をもっている。(……)(p.94-97)

アルドロヴァンディの名は Wikipedia には載っているが、高校の世界史の教科書には載っていない―一流大学受験用の詳しい参考書にはひょっとしたら載っているかもしれないが、ガリレオやデカルトの知名度には遠く及ばない。「プロローグ」によれば「デッラ・ポルタやキルヒャーのような博物学者は、大冊の出版に成功したとはいえ、アルドロヴァンディと同じく、その死後にはもはや観客を引きつけておくことはできなかった」という。「科学の共同体の進路/傾向の変化が、いくら本を著しても、すぐに時代遅れのものにしてしまった」と。しかしいかに輝かしかろうとも「根拠のあいまい」だった「壮麗な殿堂」の凋落の真の原因は、何といってもその殿堂の設計自体に内在していたのであろう。「世界を蒐集することで、人間は最終的に普遍的な真理へ到達するかもしれないというとらえどころのない期待」が人々を永続的に魅了し続けることがあろうとは、それこそ初手からあまり期待できそうもないことであった。そのフラクタル図形的な設計によって「遍在」するパンデキオンは、万象万知の包摂をめざしながら、あくまでもはっきりした根拠に基づき明確な事実の確実性を目指す近代自然科学のパラダイムを包摂することはついにかなわず、後者の直線的な実証性によって必然的に突き破られざるをえない脆弱性を本来的に抱え込んでもいた。

17世紀の末になると、蒐集家が自分たちの世界を見ていた構造は内向的なものと化し、彼らがつくりだした行動様式は分解してしまった。驚異的なものの文化の無秩序に対するガリレオの断罪や、知識を組織化する見せかけの方法としての好奇心に対するデカルトの批判は、いずれも、終わりなき知識というイメージに彼らが挫折感を抱いていたことを示している。クシシトフ・ポミアンがヴェローナのモスカルドのミュージアムについて、「奇妙な生きものやオブジェが住んでいる宇宙、そこではすべてが起こりうるし、その結果、そこではあらゆる問いが正当に提起されうるのである」と述べたとき、彼は奇しくも、内容の「真理」についていかなる責任も問わなくてすむようなミュージアムの構造に彼らが確信を抱くことを可能にしたバロックの蒐集家たちの傾向を要約していたのである。どちらかと言うと、バロックの蒐集家たちは、驚異に対する人文主義の先駆者たちの歓喜を敷衍した。多くの研究者がおこなってきたように、彼らの思弁を「非科学的」と判断するよりもむしろ、われわれは、どの程度まで彼らが、「真理」や「確実性」についての明快な基準がいまだ確立されていなかった初期近代の科学文化を反映しているのかを考察する必要がある。//
   自然の無限性を見いだした蒐集家たちは、知識の境界を解放することで対応した。ミュージアムのパラドックスは、知識の媒介要因{パラメーター}が拡張しているのに、知識を閉じこめようと企てたところにある。表面上は権威の厳格な支配が自然を蒐集する過程を安定化したものの、常に柔軟性のある好奇心のレンズが、蒐集家だけが埋めることのできる―未開発の細部と思弁の領域の間の―溝をたえず発見することで、蒐集の意味を調整していた。このような世界観を共有していなかったガリレオのような同時代人が抱いた困惑は、主に過去に照明を当てる手段として現在を眺め、すでに知られていることを証明するもうひとつの形態として実験的文化を受け入れる、百科全書的な言説の中心的な特徴を浮かびあがらせるのに役立った。キルヒャーの『地下世界』を読んだあとで、ヘンリー・オルデンバーグは、この書物はわれわれをどこに導いていこうとしているのか定かではない、とロバート・ボイルに告白している。「さしあたって」と、彼は結論する。「私が大いに危惧しているのは、彼[キルヒャー]が、考慮に値する新しい発見というよりも―それが彼の習性なのでしょうが―むしろすでに存在し知られていることを集めては、それをわれわれに提供しているということです」。哲学的な前提としての確実性という目標は、ルネサンスとバロックの百科全書的なパラダイムの解体とともにもたらされることになる。(……)(p/139-142)

アリストテレス的枠組みとそのプリニウス的拡張、についてはまた別稿において学ぶことにするが、アルドロヴァンディやキルヒャーがその生涯をかけて夢中になった博物学的営為―「事象の諸カテゴリーの間に区別を設けない万象殿」「現実的なものと空想的なもの、通常のものと得意なもの」が「真理という基準によって差異化されることのない」「自然の驚異の市場」の建設をめざして「飽くなき好奇心」をもって励むこと、そうした営為自体がそれきり時代遅れのものとして廃棄されたわけではなかっただろう。その種の壮大な企図、ほとんど妄想的ともいうべき世界総覧の企図は、時代々々にそのつど形を変えて、時に国家レベルで、時に個人レベルで、きりもなく回帰し続ける―。しかし初期近代のミュージアムは、とりあえずこの文脈からは一見かなりかけ離れた方向へ向かって進展した。
   ミュージアムという場が、単に事物が格納・陳列されるだけではなく、陳列されたそれらの事物をめぐって人の交流が行われる場でもあることは、現代でも同様であるし、そこにいぶかしいことは何もない。初期近代のイタリアにおいて学問の最先端をミュージアムが担っていたころ、都市に、ときには僻地にも点在するミュージアムは一種の学会会場のような機能を持って、「資料」の交換と博物学者・人文学者たちの学知・情報の交換とがそこで活発に行われるターミナルとしての役割を遺憾なく果たしており、そこで同学者どうしが交わす書簡さえもが潜在的な蒐集対象としてみずからを準備していた。旺盛な情報交換と相互の知識提供を介して、おのおのはおのおのの殿堂をいやが上にも豊穣にし、それにつれて、それらの総体としての宇宙万象殿もまた無際限と思える膨張を楽しんだ。その膨張が挫折したあとでミュージアムの役割が、壮麗な万象殿たることから知的な社交場たることへとその重要性をシフトさせていったのは、だからさして不思議なことでもなかった。むしろ、下の引用にあるように、もともと「最初期のミュージアム」にはこうした社交要素、公共空間としての性格が全く欠落していた、ということのほうが、そしてそれでいてミュージアムと称されていたことのほうが、現代の目から見れば案外な事実かもしれない。

ミュージアムは沈黙とざわめきの間に位置していた。修道院の書斎(studium)の静寂さや、隠者のように社会から身を引くことは、後期ルネサンスになると、ミュージアムにおける視覚と言葉の不協和音 鍵に場を譲り、研究から蒐集への移行が画された。ペトラルカからマキアヴェッリまでの人文主義者たちは、沈黙と雄弁の弁証法を評価していた。彼らにとって、書斎は瞑想の空間であった。寝室と個人礼拝堂のあいだに位置する書斎は、住居の中の奥まったところにあった。暗く、しばしば窓のない、ただテーブルや机や椅子、そして書物を並べた壁龕{ニッチ}や書物を収めた櫃だけが変化を与えている視覚的な単調さ、すなわち、最初期のミュージアム(「ムーサたちの神殿」という本来の言葉の意味において)は、われわれがのちにミュージアムに結びつけるようになる社会性の表徴を欠いた空間であった。贈りもの、訪問者の芳名録、そしてミュージアムと社会とをつなぐそのほかの蒐集展示品において見られるような、初期近代のミュージアムにとって中心的な要素であった、人文学/古典の学識の交換/交易の触知しうる連想物を欠いていたのである。
   16世紀半ばになると、学問の空間は、社交的なものと私的なものという相反する二つの模範を反映していた。後者が、フランスやイギリスのようなイタリア以外の国で長く存続していたのは、驚くべきことではない。これらの国では、アカデミーとミュージアムのネットワークは、イタリアにおけるほど広く、あるいは早く発達することはなかった。アルドロヴァンディの有名な同時代人で、フランスの人文学者ミシェル・ド・モンテーニュにとって、図書室は社会的な意味での「ミュージアム」ではなくて、「瞑想の場」(solitarium)であった。モンテーニュは、自分自身の知識への道を阻む実践について認識していることを表明しながら、「伏魔殿」(pandemonium)で研究しうるような学者たちに疑念を抱いていた。イギリスの自然哲学者ロバート・ボイルは、「自然に仕える聖職者」としての自らの義務を強調することで、訪問者たちを自分の仕事場から追い払う機会を必死で求めた。スティーヴン・シェイビンが最近指摘したように、「科学革命のもっとも影響力の大きい方法論的洞察は孤独の中で獲得されたと言われてきた」。疑いもなくこのことは、われわれがこの時期のボイルやデカルトやニュートンを贔屓にするゆえんである。彼らは、数学と自然学の発展における手本であり、そこでは協同作業は別の意味をもっていた。たしかにアルドロヴァンディ以後の博物学者たちは、博物学は潜在的協同作業の企てであると考えており、その成功は、人文主義的な文芸界に依存していた。しかしながら、この前提は、16世紀初頭には当てはまらない。われわれは、それを可能にした人文主義者の社交性の形態について調べる必要がある。二世紀のあいだに、私的な研究へと社会を導いたものは何だったのだろうか。また逆に、この研究の空間を画定した学者たちがそれを公共化するように導いたものは何だったのだろうか。
   人文主義者のサークルの形成において明らかなように、集団の知的活動のパラダイムとしてアレクサンドリアのミュージアムが銘記されていたにもかかわらず、16世紀の研究の理想は、もっぱら排他的なものであった。このような学問のイメージは、初期近代を通してずっと続いていたことは明白である。イタリアの文脈でもっとも有名なものは、マキアヴェッリが書斎における活動を、文学を介して、「不在のままで」(in absentia)公的生活に再び関わるための手段とみなしていたことである。しかし、このフィレンツェの人文主義者は、学問それ自体が社会的な基盤をもった企てだとは考えていなかった。マキアヴェッリ、モンテーニュ、ボイルのような学者たちを魅了した孤独な空間は、ミュージアムのイメージに反響している。「ミュージアムとは、他人から隔絶された学者が一人で座り、読書に耽り、研究に没頭する場である」と、17世紀の教育者コメニウスは説明している。学問は、「研究に没頭する者」(studiis debitus)を巻きこむプロセスであり、研究の場であるミュージアムは、学者と外界のあいだに、一見したところ通過不能な物理的障壁をつくりだした。(……)
   後期ルネサンスのミュージアムは、蒐集の人文主義的世界と、観照の場としての研究というより、宗教的に動機づけられたイメージとにまたがることによって、公的空間と私的空間のあいだを媒介した。両者とも知識を構築するのに有効な方法であったが、その組織に対しては別の模範を提供した。隠遁と社会性との緊張は、1510年にパオロ・コルテージが枢機卿たちに向けた、一族の形成に関する助言の中にもすでに見てとれる。コルテージは、枢機卿はローマのどこに居を構えるべきかについて「都心」(in oculis urbis)がいいか、それとも「公衆からずっと離れたところ」がいいか議論しているのである。彼の意見では、前者は社会的生活にとって、後者は研究にとって都合がいい。しかし、16世紀の末には、これら二つの活動は、次第に共存可能なものと思われるようになった。「仕事」(negotium)と「閑暇」(opium)との区別の緩和は、嗜みある領域の拡大の兆候であり、この領域はついには学問的世界の重要な諸局面を包含することになる。嗜みある空間としてのミュージアムの発展は、この移行を反映していた。(p.148-151)

ここでいう「嗜み(civilta)」とは、シヴィリアン、つまり公共人としてのあるべき振舞いの規範のことであるが、フィンドレンは、16・17世紀に「人文主義者と言われる人々はどこにいたのか」という問いに対して、「明確に画定された環境の中で、すなわち、学識ある選び抜かれた文化が集中する空間として、後期ルネサンスからバロックにかけての時代のイタリアの宮廷とアカデミーの傍らに位置を占めていた、ミュージアムの中で、自然を調査していた」という答えを与えた後でさらに、彼らは要するに「嗜みある社会の中に」いた、という答えを重ねている。そして、「嗜み(civilta)は、そのあらゆる形態において、蒐集の社会的パラダイムを形成していた」という。学問にとって「孤独」と「対話」のどちらがより本質的に有用であるかという議論は今なおしばしば聞かれつつ、「隠遁と社会性の緊張」の指針はどちらかといえば今は(2016年現在)公共性のほうへより大きく振れているだろう。フィンドレンの記述はときに時間軸を相前後して進むために、指針の振れかたのクロノロジカルな推移を整理するのは難しいし、いずれにせよこの種のものごとは単線的に一方から一方へすみやかに移行するようなものではないのだが、至極雑駁に言うならば、初期ルネサンスの頃にはいまだ大幅に「孤独」の側にあった指針が、16世紀から17世紀にかけて小刻みに両端の間を揺れながら、やがて公共性の側へ決定的に振れ切るに至った、そしてその振れを結果的に招来したのがミュージアムという場に他ならなかったということのようである。

大司教としてラグーサに着任したばかりの高位聖職者ルドヴィーコ・ベッカデッリは、その地からヴィンチェンツォ・バルバリアに宛てて、「孤独は人々に好奇心を抱かせる」と書いている。ジリオラ・フラニートがベッカデッリとその仲間たち(sodalitas)に関する研究において明らかにしたように、16世紀の多くの人文主義者は、観照的生活に対する嗜みある生活の優位を強調し、活動的生(vita activa)と観照的生(vita contemplativa)の利点についての積年の論争を再燃させた。ベッカデッリのパトロンであったヴェネツィアのガスパール・コンタリーニは、「嗜みある会話から離れて」生活することは不可能だと断言した。彼が閑暇に求めていたのは沈黙ではなくて、ざわめきであった。こうした考えは、16世紀に出現した作法に関する論考の中で、その規範的な表現を見いだした。ベッカデッリのサークルでとくに重要な会員は、礼儀作法書『ガラテーオ』(Galateo,1558)の著者として有名なフィレンツェの人文主義者ジョヴァンニ・デッラ・カーサである。デッラ・カーサが述べているように、ほかの人々と同じく学者たちも社会から身を引くことはできなかった。「このため、荒涼たる砂漠や隠遁者の独居房ではなくて都市の中で、人々のあいだで生きようと決めた者にとっては、いかに上品で感じのよい習慣や作法を身につけるかを知ることがきわめて有益であることを否定する者はいないだろう」。このイメージ―読者層の大多数を構成していた都市のエリートを夢中にした―の中に、嗜み、洗練、そして学問の空間が合流した。1550年代にダルマチアの海岸に追放を余儀なくされたベッカデッリは、ローマの宮廷の喧騒から離れて、世間とのコミュニケーションを保つ手段として蒐集を始めた。孤独の中で彼は、静寂よりもむしろ好奇心を発見した。蒐集を通じて彼は、自分があとにしてきた特殊な共同体とのつながりを再び確認した。世界に対する好奇心は、貴族生活の中心からはるかに離れた彼の現在の位置と、同じ趣味の人文主義者たちとの交流を必要としていた過去の探求とのあいだの橋渡しをしたのである。
(……)デッラ・カーサが関心をもったのは、成功する紳士をつくりあげるうえで中心的な二つの観点、すなわち身体的振る舞いと言語であったが、これに対してグアッツォは、「嗜みある会話」を成功の本質的な基準とした。グアッツォによれば、会話は「知識の出発点にして目標」である。孤独という徳目を称讃したにもかかわらず、教皇の宮廷での社交を満喫していたペトラルカのような初期人文主義者たちを、グアッツォは非難した。会話は、彼は結論している、孤独から自然と進みでる、なぜなら、それはあらゆる学問的研究の中心にある自己の探求を推し進めるからである。「それゆえ私はこう結論する。学識者や学生たちは、自分と同じ境遇の者がいないために孤独を愛するとしても、それでも彼らは、自分と同じ境遇の仲間たちを自然本姓的に愛する」と、彼は書いている。「……そのため、彼らの多くが、自邸で親しんでいる書物の学識ある著者たちと会話を交わすために、たいへんな苦労の末にはるかな時を超えて旅をしているのである」。グアッツォがこのような意見を述べたとき、彼の念頭にあったのはたしかに、自然哲学者たちや有徳文化人たちが互いのミュージアムを巡礼しあっていたという事実である。
   ミュージアムの物理的な構成もまた、社交向きの空間としてのその機能を明らかにした。ベッカデッリの場合、友人の人文主義者や有名な学者たちの肖像画を書斎に飾ることで、会話を自らの書斎に導き入れ、こうして、不在の彼らとの「会話」を楽しむことができたのである。彼の図像的なプログラムは、ペトラルカにキケロ宛の書簡を書くように導き、ほかの多くの人文主義者たちに自己に固有のムーサと会話するようにうながした衝動から着想を受けている。ベッカデッリの著名人たちのギャラリーは[アドリア海に浮かぶ]シパン島の邸館にあったが、それとは異なり、ほとんどのミュージアムは、都市空間の中に位置しており、それゆえ都市で交わされていた人文主義者たちの会話により結びつきやすかった。コルテージはローマの枢機卿たち―ベッカデッリの友人コンタリーニのような人々を含むカテゴリ―に、「講堂で議論する人たちの声が夜に書斎に聞こえてくるような盗聴装置」を据えつけるように勧めている。さらに奇抜なのは、ベッカデッリの秘書ジガンティの場合であり、彼は、ボローニャのサント・ステーファノ聖堂を見下ろすベッカデッリ一族の邸宅に自分の書斎があったのを利用して、広場を挟んで、オブジェや質問状や学識ある論考を行き来させながら、より有名な隣人アルドロヴァンディとの対話を続けていた。地理的に近いことで、アルドロヴァンディとジガンティのあいだに結ばれた友好は促進された。ジガンティの場合は、ミュージアムの存在がほかの学識者との会話を助長した多くの事例のほんのひとつにすぎない。蒐集家たちのあいだの多様な会話について語っている収蔵目録、手紙、贈答品を通覧してみると、われわれはミュージアムに浸透していたざわめきを聞きとれるほどである。アルドロヴァンディやチェージのような博物学者たちが、自らの手紙に「われわれのミュージアムより」(ex Musaeo nostro)とか「チェージ・ミュージアムにて書かれた」と署名したとき、彼らは、ミュージアムの空間と人文主義的な知識の生産とのつながりを強化していたのであり、それは、嗜みある社会の結束をつくりだす、絶えまない言葉の交換によって媒介されていた
   マントヴァの薬種商フィリッポ・コスタの小書斎(studiolino)について詳述したジョヴァン・バッティスタ・カヴァッラーラは、その書斎のことを「われわれの時代に発見された、きわめて稀な単体植物を所有する、まことに上品な劇場」と記している。カヴァッラーラの言葉はよく考えて選ばれている。コスタのミュージアムに上品さを帰すことで、彼はミュージアムが据えられるべき正確な社会的、道徳的基盤を読者に知らせたのである。蒐集は、一定のステータスをもつ人々だけにふさわしい活動であり、蒐集とステータスとの密接な関係は、ミュージアムの位置に影響を与え、ミュージアムの条件を決定づけた。(……) (p.151-154)

16世紀の人文主義者たちの著作に最初に現われた、学問の社会的評価をバロックが完成させた。ダニエル・ゲオルク・モルホフがこのジャンルの学術大全{スンマ}『博識家』(Polyhistor,1688)を著わしたころまでは、16世紀と17世紀の人文主義的な文芸の共和国を形成していた、嗜みある言説の伝統全体について省察することができた。「礼儀正しいすべての人々のあいだには」と、彼はミュージアムと神学校に関する章で書いている。「自然の事象や諸学芸やあらゆる種類の研究について共通に議論できる学識者たちの公的な集まりがあった」。モルホフはさらに、「学識ある会話について」と題された章において、友好と学問の関係の特質について詳しく記している。ここで彼は、「ミュージアムと神学校は、……通常、学者たちの会話によって相互の学問が向上するように設置されている」と述べている。17世紀の学問の世界を特徴づけている、イエズス会の神学校、科学協会、ミュージアムの興隆についての鋭い観察者であったモルホフは、キルヒャーのような博学者たちの百科全書的プログラムを、彼らが関与した社交的実践に明確に結びつけていた。「本当のところ、学識ある人々との頻繁な会話ほど、知識を集めるのに向いているものはない」とモルホフは書いている。ラテン語の学識に裏打ちされた2000ページにも及ぶその著作の中でモルホフが長々と詳述しているように、百科全書主義は究極の嗜みある言説であった。というのは、それは談話すべき無数の事柄を提供するからである。モルホフが学問の模範として挙げたキルヒャーは、たしかに、この言明の賢明さを称讃したことであろう。
   17世紀になると、ミュージアムと「会話術」(ars conversandi)との関係は、新しい技術に基づく「驚異」(mirabilia)を生みだし、それをミュージアムに組みこむ機会をもたらした。ローマ学院にキルヒャーは、彼の有名な「デルポイの神託」のような彫像があたかも生きているかのように見せる「喋るトランペット」ばかりか、彼が世間の人々と十分に話すことができるようにする通話管を設置した。この聴覚装置は、長さ30スパンで、ミュージアムとキルヒャー個人の住居とをつないでいた。この装置を通じて、守衛は訪問客たちの到着を告げ、「離れた寝室に引きこもっている」キルヒャーと接触することができた。1651年にローマ学院の三階のギャラリーにミュージアムが移されてからは、このイエズス会士は、自らの個人的な書斎とミュージアムとを分離することを選んだが、それは、自分の珍品奇物を見にくる多くの訪問者たちから逃れるためではなかった。ベッカデッリが、著名人たちのギャラリーのゆえに、遠くからでも人文主義的会話に参加し続けることができたのと同じように、またジガンティが、自らのミュージアムのゆえにボローニャの人文主義的文化に参入しやすくなったのと同じように、キルヒャーは喋るトランペットのゆえに、一貫して自分の生活の中に、嗜みある社会をとりこむことができた。同時代人のボイルが、訪問者たちを自分の実験室から遠ざけるために手のこんだ儀式を開発したのに対して、キルヒャーは、彼らをミュージアムに入りやすくするための技術を開発したのである。
   イタリアの貴族たちによって培われた科学の嗜み{シヴィリティ}は、たちまち海外にも市場を見いだした。17世紀も半ばになると、パリやほかの都市の貴族たちは、自然についていかに会話するかを学ぼうと必死になった。新たに設立されたパリ科学アカデミーの本拠地であり、ヨーロッパ最大の宮廷であるルイ十四世のヴェルサイユ宮殿にほど近いパリは、礼儀正しさ(politesse)―嗜み(civilta)や良き作法(buona creanza)に対応するフランス語―の中心として、すぐにローマやフィレンツェにとってかわった。嗜みある世界におけるパリの地位の向上は、たちまちイタリアの博物学者や蒐集家たちを引きつけた。(……)
(……)イタリアの蒐集家たちが自然の劇場を形成することに成功した点を認めつつも、ボッコーネは、フランスの宮廷人の能力がより優れていることを力説した。というのも、フランスの宮廷人は、活気のないヴェローナや騒々しいナポリよりも都会的な環境にいて、多くの事物を蒐集できる状態にあり、またそれらが探求に値するものとみなす嗜みをもちあわせていたからである。自然を蒐集することは、もはや、単に学識を具え、好奇心をもつ者たちを共通の努力において結びつけるという理由だけで重要なのではない。それは、勃興しつつある絶対主義的な権力の中心と、そこに制定された新しい嗜みとを反映していたのである。 (p.156-158)

キルヒャーが現代に生きていたら、さぞかし嬉々としてツイッターやフェイスブックを日々更新し続けたに違いないと思わずにはいられないが、ある時期の西洋におけるミュージアムとは、まさしく当時における SNS(ソーシャル・ネットワーク・サーヴィス)に他ならず、そこで必要とされた嗜み civility ことに「会話」における civility とは、今でいう「リテラシー」に限りなく近いもの、それが欠落した者はその共同体に参与させるに値せずとみなされ、さりげなくあるいは明示的に排除されるところの資格要件であったとおぼしい。初期近代の人文学者・博物学者たちは、みずからの「飽くなき好奇心」に対して誠実に振舞いつつ壮麗な「知の万象殿」の構築によろこばしく勤しみながら、同時にはからずも大々的な、今でいう「知の流通プラットフォーム」の汎ヨーロッパ的形成に寄与した。そのプラットフォームは一方でいとも生産的な人文知の豊饒を現出させる有効極まりない基盤となったのだが、他方そうした基盤にいかにやすやすと権力が憑依するか、その様子をもまた、フィンドレンの活写においてまざまざと見てとることができる。目を驚かす驚異と破天荒な企図がその価値の下落に甘んじたあとは、特殊共同体の維持形成のための選別と承認の機能だけがそこに残った。限りない無窮の宇宙把握への痙攣的突破をめざした人文知は、そのマニッシュなフェイズの終息とともに、シヴィリアン・リテラシーとの価値同一性の中に再度かりそめの安定を見出し、教養的価値の提供というサーヴィスをもって権力に奉仕する役割にしばしよんどころなく同一化することになったのだ。

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