ノイズ・デザイン論
ひとくちに「音声」と言うが、映像における音声とその聞こえかたを考える際に、音と声は分けて考える必要がないだろうか? 『諸橋大漢和辞典』によれば、「音」とは、「事物の声」なのだそうだが――だとすれば今キイボードを打っているその打鍵の音は、キイボードないし PC の声だということになるが、そう言った時点ですでに「声」という言葉は比喩にしか聞こえなくなってしまう。せめて事物ではなく動物の声にだけ、「声」という語を当てることにしたいものだが、その場合、では例えば鳥の声 と人の声は分けて考える必要があるだろうか? 「声」というものが昔から言語的伝達をもっぱら担うところのメディア Medium とみなされてきた点に鑑みれば、「人間の言語」を載せる媒体としての声とそれ以外の声を分けて考えることにはそれなりの必然性があるように思える。では映像とその見えかたを考える際に、人の姿とそうでないものを分けて考える必要はあるだろうか?
カメラの知覚と人間の知覚、なかんずく生物の知覚の最も大きな違いは、生物はその知覚が中枢的であるということらしい。この「中枢的」という言葉は前田秀樹『映画=イマージュの秘蹟』(青土社、1996)という本でかつて覚えたのだが(誰のオリジナルなのかは知らず、ベルクソンかもしれぬ)、要は、人間をはじめとする諸生物は網膜に映るもの全てを「見て」いるわけではなく、無意識に、みずからの生活と生存にとって必要なものだけを選択的に見ているということで、例えばライオンが獲物を狙うときには地平線の雲なんかを見てはいない――網膜にはうつっていたとしても「見て」はいない。この本では、そういう選択的なありかたをする視覚に「中枢的視覚」という語が与えられているのだが、別の言い方をすればこれはつまり、生物は網膜に映るものを全て出力するわけではないということだ。ところがカメラは、光学的に知覚されるものどうしの間に何らの差別を設けない。カメラの視覚は(ピンボケというようなことがあるにしても)原則として非中枢的であって、みずからが知覚しているのが人間の姿なのか空の雲なのか、彗星なのかランプなのかは、カメラにとっては何の関係もない。写真にうつったものどもを見て、彗星だとかランプだとか人だとか思うのは人間であり、写真を見るときでさえ人間は選択的に「中枢的視覚」を働かせる。他方、録音機もまた非中枢的な聴覚を持っており、発生源とマイクとの距離その他の設置状況に応じて入力されてくる音を入力されてくるままに録音するのみである。もっとも最近(2015年現在)は顔認知してくれるカメラや人声だけ切り分けてくれる――しかも個人別に切り分けてくれる――録音機が普通に出現しているが、それはカメラや録音機の機能というより内臓されたコンピュータの機能だととりあえず考えておくことにしよう。私たち人間は、コンピュータを内蔵してはいないがそのかわりに脳とかいう中枢的知覚システムを持っていて、いろいろな音のなかに人の声が混ざっていれば「人の声が混ざっている」と即座に認知するし、いろいろなものがうつっているなかに人の姿があれば瞬時にして「人がいる」と認識する。中枢的知覚などと難しい用語を使わずとも、すばやく動くものや、際立って赤いもの、あるいは人の顔などに「つい目が引かれる」のは、誰しも日々体感するところで、同じことは聴覚の方面でも言える。突出した音や人の声は、ざわざわとした中でも際立って「耳に入ってくる」ものだ。
ところでものの本によれば、画面上に文字がうつっているとき、人の目は非常な強度でその文字に吸着されるそうである。被験者にアイ・トラッカーなる視線センサーを装着させて、何かの映像を見せ、途中で文字を入れると、画面を漂っていた視線が非常にすみやかにその文字のところへ移動し、かつそこに長くとどまる様子が観察されるという実験データがある。文字への視線の吸着と滞留は、他の諸要素へのそれに比べ、とびぬけて顕著であるそうだ。してみると、聞こえてくる人声が言葉を話しているときに中枢的聴覚がそこへ向けられる度合いは、単に画面に人の姿が写っているときにそこへ中枢的視覚が向けられる度合いよりもはるかに高いだろうと推測しても、さほど無理はないように思われる、つまり音声において人の声が語る言語が人の耳をひきつける力は、映像において人の姿が目をひきつける力と文字が目をひきつける力とを両方あわせたものに近い強さを持つのではないかということだ。むろんこれはとても雑駁な仮初のリクツにすぎないのだが、仮にそうとしてみると、映像において人の姿というものが視覚的に突出する度合いよりも、音声において人の話し声が突出する度合いのほうがはるかに高いことになる。しかし実際のところは、話し声と、例えば泣き声や笑い声など、明瞭な言語を載せていない人声とで、「耳に入ってくる」度合いがそれほど違うような気もしない。赤ん坊の泣き声などはもともと嫌でも耳に入ってこざるをえないような音声構造をしているらしいが、そうでなくとも、笑い声だろうが唸り声だろうが、はたまた聞いたこともないような謎の宇宙語の声だろうが、人声を人声として聴いてしまうなら、そのときすでに、何らかの音声的本質のみならず言語的本質をもその声において伝達されてしまおうとする志向性が働いているのではないだろうか、平たく言い換えれば、その声に意味を読み取ろうとしてしまっているのではないか? あるひとつの音声が人声であると認知される限り、その発生源として、その音声に言語を乗せることができると推測されるある主体、能動的な言語出力主体ないし発語主体がおのずと想定されてしまうのだが、翻ってそのような主体が発生源として想定されるような物音が聞こえたならそれは「声」として認知されるという具合で、したがって言語を乗せない声、ひいては声ともいえないようなものしかそこにないときにも、何らかの発語主体がそこに想定される限り、えてして「声」という語を用いてその発語が語られようとする――声なき声だとか、奪われた声だとか、失われた声だとか、そういう半ばポエジーに寄りかかったような比喩めいた言い回しで、その「声」とやらの主体が何か発言を抑圧されたものであるとかないとかいう類の物語がひんぴんと語られるわけなのだ。もっともこの点に関しては、「声」という語自体がもともと比喩を内包しているのだと考えられなくもなく、例えばラテン語の辞書で vox をひくと、「①声。②人の発言。③発言権。」などと書いてあり、人類がいわばモノゴコロついて「声」という語で世界の一部を分節した当初すでに「声」は同時に、「発言権」はともかく少なくとも「発言」すなわち「発語」ないし「発せられる言葉」等々を含みこんだ概念だったとも考えられる、というそれほどに人の声の認知は言語認知と切り離せないものとしてあるように思われ、たいへんに厄介である。しかしながら、声をめぐる議論が常に何かあいまいな、判然としない空虚で抽象的な堂々巡りに終わる原因のひとつが、半ば比喩性をはらんだ語義を無反省にこの語に許す姿勢にあることは疑いないと思えるので、およそ声と言語をめぐる諸問題を綿密に考察しようとするならば、当初はまずもって、「声」とはあくまでも生物の口腔を通して発せられる音声のことを謂う、というところにみずからを怠りなく定位しておくべきだろうと常々考えているのである。
スピーカーから響く人声を認知したとき、そこにおのづから発語主体が想定される、その想定に対して、しばしば映像がかりそめの解答を与える役割を担う。今ここで声を発しているのはこの人であると思え、という示唆を視覚情報として映像が与えてくれるのだが、これに対して、映像にうつる姿形のほうは、それがあらかじめ人の姿形をしていれば、それ以上どうということはなく、それは人であるということにとりあえず疑問はないだろうし、その人が一言も喋らず、その声とおぼしき声がスピーカーから全く聞こえてこなかったとしても、それでどうということはない、そういう無口な人は実際にもいくらでもいるからだ。画面上に人の姿を見るとき、当座そこには単にせいぜい「この人はどんな人だろう」という問いがあるだけで、これに対するかりそめの解答を、今度はしばしば声が与える、そうして一人の人格と呼べるような人間的ないわば wesen が、映像視聴において成立する。映像上において一個の同一的な人格を立ち上げるのは姿形よりもはるかに声のほうに多くを負った営為だということは、『オリエンタル・エレジー』のところで述べたようにあれこれの映画の冒頭において明瞭に観察されるのであって、こうした声の特性をして、蓮實重彦がいうように「声は姿形よりもいっそう身体に密着している」とか「声は身体そのものである」と言っていいのかどうかはなお大いに疑問であるにせよ、人が、ひとつの、個として統合された言語出力主体として認知されること、に姿よりいっそう密接に関与するのが声であることは確かであり、この、個として統合された言語出力主体、発語主体として認知されることがすなわち、自立した個人として認知されることに他ならなかったのが西洋近代である、とそういう文脈は、一定納得できる話ではある(それを「西洋近代」と限定していいのか、その限定のしかたでいいのかという大きな問題はあるけれども、ここでは措く)。
別の箇所で「言語的本質」と「映像的本質」とを別個のものとして考察したが、この区分が常に有効なわけではむろんない。言語はそれ自体、映像的――と言って悪ければ視覚的なもの(文字の形象)と、音声的なものとの両方から(多くの場合)できているからだ。この、「……でできている」というのが具体的にどういうことなのかが、つまり極めて難しい話で、古代から現代に至るまで言語哲学者たちの議論のまとであり続けているテーマなのだが、『オリエンタル・エレジー』などはそのあたりを考えるための大きなヒントになりうる。つまり、声、というものにはまずもって発語主体が貼りついており、発語主体が貼りついていることが声というものが持っている根本的な問題性であると考えると、一種の字幕もまた、同じ問題性を持っている。『オリエンタル・エレジー』の場合は、字幕に貼りついている発語主体はこれです、と映像がその姿を呈示しているかのように見えながら、その姿をしたものはまた別の発語形態すなわち音声言語を語る「声」を持っており、その「声」と、字幕とが一致しないために、字幕がいわば宙に浮いて余ってしまい、姿を呈示されない別の発語主体がさらにどこかにあると想定されざるをえないような状況が発生しているわけだが、では、ああした字幕もまた一種の「声」なのであると言っていいだろうか。あからさまに字幕は字幕であって物理的な「声」ではないのだが、にもかかわらず、それが発語された言語であるがゆえにあたかも一種の声に他ならないかのような錯覚的認識が生じる。ここにも、例のフィクション・ロマンを成立させる詭弁と同じような詭弁がはらまれる、つまり、声には発語主体が貼りついている→発語主体が貼りついているのはすなわち声である→ゆえにあの字幕も声であるという、実は相当に非論理的な三段論法によって、書かれた文字としての言葉もまた、その言葉を発した人間すなわちその字を書いた人間の声である、という「お話」が生まれ、流通するのである。典型的なのがツイッターの「つぶやき」云々だったが、ツイッターも近頃はだんだん様相が変わってきた。私が参入したのは2010年になってからでだいぶ遅く、初期のころの様子は知らないのだが、2010年当時はまだ、二千人くらいフォローしているとタイムラインがざー、ざーとおよそ読む暇もないスピードで流れて、目が追いつけずせいぜい断片しか読みとれない、それが本当にちょうど人ごみを歩いているときにすれ違う人々の断片的な会話が耳に入るのと同じような感覚だったので、まさしく「いろんな声が聞こえてくるなあ」と言いたくなるような感じ、そして実際そのように言われていた、ツイッターはいろんな人の声が聞こえるメディアだ、と。「聞き逃し」たら最後、後から追いかけてそのツイートを掘り出して読むことすらほぼ不可能なくらい、それらの「声」はまさに滔々と「流れて」いったのである。しかし今ではツイッター自体の仕様が変わって、タイムラインが流れなくなった。新しいツイートは貯めておいて、クリックで一括表示させるようになっていて、自動的に流れていかないので、雑踏の中で断片に耳をすます感じは全くなくなり、単にいろいろな人の短いテクストを読む感じしかしない。私ももうめったにログインしないが、ツイッターでは声が聞こえるといったようなことは今でも惰性のように言われていたりするのだろうか? いずれにせよ、2010年時点でもむろんそれはあくまでも比喩にすぎなかったが――実際のところは全て文字テクストなのだから。それでも声と文字のことを考えるにはツイッターはとてもよいメディアだった、書記言語つまり文字で書かれた言語と、音声言語つまり声として発せられる言語との関係と距離とを考えるうえで、だがそれはあくまでもタイムラインの、上記のようなリアルタイムの流れが特殊で面白かったので、何が面白かったかというと、つまりは声というものの例の特質、それこそが声の特質であると長らく考えられてきたところの、一回性、その場限り、再生不能という特質が、書記言語であるにも関わらずツイッターのタイムラインには疑似的にであれ明瞭にあらわれていたからだ。今ではもう、そうではない。
東 ぼくはいま(……)『思想地図』という評論誌を(……)その創刊号に増田聡さんという僕と同い年の音楽社会学者が描いている面白い論文が掲載されています。(……)なぜ「初音ミク」だけ爆発的に流行したのか。(……)/増田さんの結論は、パッケージがキャラクターだから、という身も蓋もないものです。(……)人格をうしろに持たない声というものを、おそらくヨーロッパのクリエイターは受け入れ難かったのではないか(……)ところが日本では簡単に受け入れられた。それはなぜかというと、キャラクターというクッションが挟まっているからだと。/そもそも日本には「キャラクター・ボイス」、声優と言われている職業があって、これがすごく特異に発達している。キャラクターという、現実には身体がない存在に身体性を宿らせる職業として声優があるわけですが、それが特異に発展を遂げた結果、逆に人格が宿らない声を出せる人たちが声優になっているわけです。(……)日本とは僕の考えでは、人格が宿らない声、匿名の声をおそらく大衆レベルで受け入れている国です。そしてまた、人格が宿らない発声の技術もたいへんに蓄積している国で、その伝統があって『初音ミク』というソフトが流行した。/というわけで、僕がさっきから「平板な声」と言っている問題は、以上のように「キャラクター」の問題圏なんかとも関係していますし、「匿名性の文学」みたいなこととも関係しているんですが、また同時に、それはすごく具体的な声の質の問題でもあって、だからこそ声優なんかが存在する。なんで日本では「声」が人格を抜きにして消費される環境があるのか(……)
(東浩紀/古井由吉/堀江敏幸/吉川泰久「シンポジウム 文学と表象のクリティカル・ポイント」
『表象』第3号、表象文化論学会、2009)
これは、一見とてもわかりやすいことが語られているように見えて実はかなり読解が難しいテクストである。いろいろな文脈が絡まっていて、東氏のこれ以前・以降の論考を何かと参照しないと本当は正しく理解できそうにはない。例えば最も興味深いポイントのひとつとして、「日本では「声」が人格を抜きにして消費される環境がある」というフレーズがあるが、このあたりの検討はまた別の機会に譲るとして、ここでは「平板な声」という問題に特化して考察してみる。
今でこそミクの「歌唱力」も長足の進展をとげ、限りなくナマ声に近づけることも、易しくはないにせよ驚くほど巧みにできるようになったが、2009年当時だと確かにヴォカロの声はおおむね、実際ぱっと聞いて平板な感じのするものだった。今はミクだけでなく様々なヴァージョンも生まれたし、好みによっては限りなく平板に歌わせることもむろんできるが、どれでもパッと聞いて「平板な声」という印象を持つとは全く限らなくなっている。平板、というのは要するに、生声にはある揺らぎとかカスレとか、ある音程から別の音程へ移行するときの微妙なアナログさとか、あるいはブレス――呼吸の音、それも息つぎだけでなく、発声するときに必然的に常に伴う呼吸の音、そういうものが生声に生声らしさを与えているのだけれども、そういうものをひっくるめて「ブレスノイズ」と呼ぶとして、そういうブレスノイズが当初のヴォカロにはなかったというか、入れにくかった、それで必然的に非常にマシナリーでデジタルな、平板な声になっていたわけなのだが、今ではそんなブレスノイズなんかいくらでも入れられる。ヴォカロで美空ひばりを歌わせてもけっこうそれらしいものができる域に達している。これは声以外の電子楽器でも同じで、例えばサックスにしても、ヴァイオリンにしても、同じことがおそらくいえる。ヴァイオリンの場合はいわば擦弦ノイズとでも言うべき、弓が弦をこする音が「ブレスノイズ」に当たるだろうが、ヴァイオリンの楽音が楽音らしく響くためには、その楽音が発せられる瞬間に弓が弦をこする擦音ノイズが不可欠で、その擦音ノイズをどう調整すれば最も美しい響きになるかというのが、つまりヴァイオリンを練習することの重要な一環であるのは、歌うときに呼吸をどう調整すればいいかが歌の練習の重要な一環であるのと同じだろう、その擦音ノイズも、今では相当自在に入れられる模様だ。
さて上に引用した東氏のセリフの前に、次のような対話がある。
東 僕は、教養とは「声」を聞く能力のことだと思うんです。書き手の能力や意図を行間から「声」として聞き取ってしまう能力というのが、一般に教養と言われているもので、批評家とか文学研究者というのはそこにすごく敏感です。だから、平板な匿名の郊外型の(……)文学や批評を、無意識のうちに拒絶するように訓練されている。だからこそ逆に、ネットの日本語は解毒剤になるのではないかと思うわけです。文学研究者や批評家は、いちどすべての教養を捨てて、リセットし、文学や批評を声がないものとして読む必要があるのではないか。(……)/(……)つまり「書く」という行為が、ペンを持って書くというだけでも物理的に体力を使うことであり、またその字体なり句読点のリズムなりにその人の教養なり声なりというものが入っていくものであったのが、パソコンになり、さらにはケータイで書き込むことになった過程で、大きく変わっていった。たとえばいまでは、「あ」と入れると僕がいつも使っている「あ」からはじまる言葉が機械から勧められてくる。「あ」、「東」、「ありがとうございます」というのが入っているわけです。それを選んで文章を組み立てていく。それは、従来の意味での「書く」という行為とは別ものです。でもそれはやはり書くことなんです。(……)
吉川 (……)いちいちの文字の表意性とか文字のグラフィックな側面とかそういうものに向き合うような文字の使い方がなされなくなっていて、表音文字的な感じでどんどん機械のほうが言葉を繰り出してくれるような世界のなかで、多くの日本語が書かれている。思考にとっての、良くも悪くもノイズとしてはたらく書字への感覚がどんどん希薄になっている、そういう環境にある、ということですね。
堀江 (……)書くのではなく入力する、選び取るというお話はとてもおもしろかったですね(……)書いた、という直接的な感触なしに、文字を選ぶわけですから。あとは、それこそ身体感覚を経ていない平板な「絵」を並べていけばいい。重みが全然ないんですね。(……)その作業に馴れてしまった以上、なすべきことは、平板に書かれてしまったものを平板に表現して、平板なものを「文学と呼ばれるもの」にふくめるのか、そこにあらためて別の負荷を与えて、かつてのものとは異なるけれど、かならずしも平板だと言い切れないなにかを作り直すか、どちらかになってくる。「変換窓」から入って直筆のほうへ戻っていくというか、そういうことを意識的にしないと、「声」が出てこないんですね。ある意味、それはとても怖い体験で、「声」なしで文章が出てきてしまうということに対する、現象としての怖さに対して僕は抵抗がありましたし、いまもそういうところがあります。/いま、大学で若い人たちの文章をかなり読んでいます。そこには、僕が手書きの頃に聞いていた「声」は、ありません。そもそも、文字と文字のあいだから立ち上がる声なんて、彼らはあまり意識していそうにない。漢字は、ひらがなと同じ速度で画面上に表示できる記号です。その感覚に合わせて書くと、文章のなかにピッチの変化が生まれない。いったん平板にした、というのではなく、最初からあったものなんです。それがデフォルトである以上、平板かどうかなんていう問題意識は、彼等になくて当然なんですね。そこで、こちらが無理矢理、読み手として、かつてあったような「声」を重ねてやろうとすると、わざとらしい「裏声」になってしまう。ファルセットになってしまう。逆に言えば、彼らの文章には、裏返すことのできない声の、ある種のリアル感というか生々しさがあるはずなんです。それは僕がやってきたこと、現在やっていること、これからやりたいこととは次元のことなる「声」です。好き嫌いの問題ではなく、それを「声のない声としての声」だと認識して、交感し、触れ合うほかない。でも、それは見て行きたいと思います。ともあれ、かつてあったと思われている「声」がなくなった、という見方には、賛同いたしますね。
このあと東氏のミクの話になるのだが、こうした対話を読んで、現在2015年の「大学の若い人たち」は果たしてどのように感じるのだろうか。もっともこの鼎談は2009年当時のもので、すでにかなり古く、ここで扱われている諸問題に対する考えかたや態度はその後お三方それぞれに相当に進展もしただろうし、ことによったら大きな方向転換があったかもしれず、2015年の現在もう一度同じ顔ぶれで鼎談が行われたならばまたがらりと様相の異なる対話が行われるに違いないと思うから、今さらこの対話を挙げつらって云々するのもどうかと思わなくもない。しかしながら、ちょうどこのころツイッターに見出していたのと同じくらい重要な手がかりを私はこの対話にも見出していたし、お三方ご自身の思想がどうというよりも、文字になって残っているこの対話そのものに興味深くも重大な問題がいくつも含まれていると考えるので、あえて改めて考察の対象とするのである。
まず、「声」という語にカギカッコがついているところから、この「声」というのが文字通りの肉声をさす語ではなく、特殊な使われかたをしている語だということがわかる、そしてそのことを話者なり編集者なりが意識していることが、このカギカッコによって示されている。ではこのカギカッコつきの「声」は、ここでは何を指す語として用いられているのかといえば、ほぼ無前提に「書き手の人格がそこにあらわれるところの身体性」というような意味で用いられているように思うのだが、身体性と言い換えたところでより具体的になるわけではない。「声のない声としての声」とは一体ぜんたい何だと考えればよいのだろうか? こういう言葉が氾濫する状況こそが、東氏のいう「「声」が人格を抜きにして消費される環境」以外の何物でもないのではないか? 趣旨としてはおそらくこうだ――言葉があるが、その背後に貼りついている発語主体の人格を伴った身体性が判然としないときに、それが判然としないということ自体がその発語主体の発語の特質でありその特質そのものが彼の身体性である、とおおむねそのような、発語の形態と発語主体のありかたの関係がここでは問題にされているとおぼしいのだが、そこに「声」という語が投入されることによって、問題のベクトルがずれる。ずれて、個人としての書き手のアイデンティティの問題へと滑脱するのだ。なぜなら上に述べたように、声、肉声というものは長らく、まさにそれこそが個のアイデンティティの座に他ならないものとして把握されてきたからだ。そして、いわゆる直筆、手書き文字というものも、いつの頃からか肉声に準ずるものとして扱われてきた、直筆とは肉体であり声であると。そういう考えかたにはそれなりに納得できる点も多々ありつつ、それだけを一言で言いきってしまえば短絡以外の何物でもないが、ここはひとまず百歩譲って、直筆は声である、あるいは、直筆には声がある、ものであると仮にしてみよう。その仮定から、上ではこの「声である直筆」に対してワープロやケータイで書く言葉は「声なき声」である、という話に移行するわけだが、それは「書く」文脈つまり「声」を「発する」文脈の話で、ところが上の対話の冒頭、東氏のせりふは「声」を「聞く」話から入っている。対話の流れで、「聞く」話から「発する」話へ途中で何となく移り変わったのだが、「声」を「聞く」文脈と「発する」文脈、言い換えれば「読む」文脈と「書く」文脈は、裏表にぴったり重なったパラレルな文脈では実はない。「書く」文脈においては、直筆からキイボード入力への移行、というワンステージでものごとが(口述筆記というものをひとまず度外視するとして)一応整理できるけれども、「読む」文脈では、手書きテクスト→印刷テクスト→ディスプレイ上のテクストという二段階の移行が本来語られる必要がある、それが、上の対話では、この真ん中の段階つまり印刷と活字組版という途方もないものの話が完全に抜け落ちてしまっているのだ。当初の「聞く」話からいつのまにか「発する」話へ流れてしまったためについ抜け落ちたのだとむろんひとまずは考えられるけれども、単に話の流れで抜けたいうにとどまらないある種の不穏な問題がここには実はひそんでいるとも思われる。
冒頭で東氏は、「教養とは「声」を聞く能力のことだと思う」という。そして、「書き手の能力や意図を行間から「声」として聞き取ってしまう能力というのが、一般に教養と言われているもので、批評家とか文学研究者というのはそこにすごく敏感」だという。言いかえれば、批評家とか文学研究者というのは、行間から書き手の声を聞きとる訓練をずっと行ってきた者たちであるということだ。そしてその行間の声なるものは、テクストが手書き・直筆で書かれるからこそそこに出現するものである、という文脈で会話は進んでいくのだが、しかし彼ら、会話をしているこの三人が、自身批評家なり文学研究者というものであるとして、彼らが幼いころから不断にものを読む訓練をしてくる中で読んでいたものは、世代からしてほとんどが印刷テクストであったはずである。行間から声をききとる訓練なるものを、彼らといえども、大半は印刷本で行ってきたのだ――むろん手書きのものに触れる機会も今現在よりは多かったに違いないだろうけれども、それは手紙やメモ、ノートなどにおいての話で、「本」は彼らの世代がまだ幼かった頃にはとうにほとんど印刷本になって久しかったのだから。にもかかわらず彼らが行間から読みとるであろうところの「声」なるものが、肉筆で書かれたがゆえのものだとなぜ断言できるのか、私にはわからない。文字を書くのではなく「選ぶ」ことによって文が平板になり声が失われるというのならば、活版製版の過程で活字が「選ばれ」る時点ですでに肉筆の声は失われているはずではなかろうか? ……とハタと思うのだが、もちろん三人の対話はここではすでに「書く」文脈の話に移行しており、そこの議論では、あるテクストが最初に手書きで書かれたときに手書きゆえに必然的に文の中に織り込まれたであろう「声」が印刷の段階で失せる、というようなことはそもそも問題にもされていない。いったん文中に織り込まれた「声」は、後々どういう形態で出回ろうとも「教養」さえあれば読み取れる形でずっと残存するはずだというのが暗黙の前提になっている。要するに彼らが話しているのは、ワープロ――PC に搭載するワードプロセッサではなくいわゆる「ワープロ」が出現した80年代初頭くらいからすでにかしましかったいわゆる「手書き・ワープロ論争」の続き以外の何物でもないのだが、同じことを書こうとしても手書きとワープロ書きでは別の文章になるだろうという説は、確かにそういう気もしないことはないけれども所詮立証不可能なことで、この議論にはいまだに世間的に何か決着がついたわけではなく、この点に関しては私はわりと中立の立場である。ただ、この会話の中で言われている、手書きは身体出力だがキイ入力はただ選ぶだけだから身体から乖離しているといった方向のテーゼには、私は実感としてあまり賛同できない。キイ入力も身体出力以外の何物でもないと思う。確かに手は手書きほど疲れないが、目は数倍疲れる。手書きなら暗闇でも書けるが、キイ入力は見えなければ書けない――キイ自体はブラインドで打てても、少なくとも日本語や中国語など漢字変換が必要な言語は、目で見ない限り決して「書け」ないので、必然的に目を酷使する。疲れ方が違うがゆえに出てくる文章もきっと違うのだろうとは思うが、キイ入力が身体感覚を経ていない、あるいは希薄だとは全く思わない、その身体感覚の性質が全く異なることは確かだが。同じく印刷になった文章を読んで、初発が手書きだったのかワープロないしパソコンだったのか、彼らが本当に一目で区別できるのかどうか、疑わしいと思う。少なくとも私にはできないが、それは私自身が原稿用紙で原稿を書く「身体感覚」をとうに忘れ呆けてしまったからだというわけだろうか?
手書き世代ということを言うなら、例えば自分が一生懸命原稿用紙に書いた原稿が活字になったときに――「活字になる」という言い回しも興味深いものだが――文章が違って見える、なにか立派に見える、自分が書いたんじゃないような気がするというような経験をどのくらいしてきているか、というのが、あえていえば重要なことかもしれない。いや、そういう経験をすることが重要だ必要だという意味ではなく、考えるヒントとして重要かもしれないということだが。手書きで書いたときの初発の身体性はそのテクストが印刷になったからといって失せもしないし大きく変化もしない、という上記の暗黙の前提は、このところこれまた大いにカシマシかった――今でもカシマシいのかもしれない――電子書籍に関する議論における、いわゆる「紙派」の人たちの主張にも多く裏返しの形で引き継がれているもので、電子書籍の隆盛に対して紙の書物を擁護する人たちはおおむね、書物は身体だ、というようなことを言う。書物は紙とインクというマテリアルでできていて、人間の身体と直結するものであって、書物の経験は身体的経験である、電子書籍では身体的経験が不可能だ云々という。ここでは紙の書物の物質性、物体性が、今度は「読み手」の身体性に直結させられる。むろんそこにもいろいろな温度差があって、活版は身体性を持っていたけれどもオフセットになって以来印刷は死んだとか、さまざまな細かい見解の相違があるのだが、いずれにせよ、電子書籍というものを前にしたとき、印刷書籍が相対的にであれ「身体性」に連関させられて論じられる、そこでは、活字印刷というものがそもそも手書きのテクストから何をそぎ落とすことによって成立してきたか、という視点が、戦略的にとはいえ完全に欠落してしまう。話を先取りして言うと、直筆の身体性と呼ぶべきものがあるとして、活版印刷はそれをそのまま再現して複製したのでは決してない。むしろ直筆特有の身体性を喪失せしめて新たな別個のそれを付与するためにこそ活版印刷技術はあったのだが、興味深いのは、この話が、別稿で紹介する蓮實重彦氏の声と録音に関する議論とどこそこパラレルなものに思えることだ。蓮實氏によれば、声の録音再生は一種のタブーであったために、ながらくその技術が一般に開放されることなく一部の特殊な技術者が占有する技術であり続け、また、それについて多く語られることもなかったのだという。もしそうだとすれば同じようなことが印刷技術についても言えるのではなかろうか。活字印刷、つまり、もともと手書きで書いた原稿を活字にして印刷して本にするその技術は、活版であれオフセットであれ長らく一般に開放されることなく、出版社および印刷所という特殊な機関が占有する技術であり続けた。自分の書いたものが「活字になる」ためにはプロの手を介するしかなかったので、だから「活字になる」というのが「公けに刊行されて流通して人の目に触れる」というのと同義の言い回しになったのだし、それは大変にハードルの高いことだった、でも今では、誰もが日々何でも録音できるのと同じように、誰もが日々あらかじめ「活字」で文を書ける。売れるかどうかは別として、本などいくらでも自分で作ってしまえる。しかしながらそれでいて、この三人の会話に見られるようにしばしば印刷の話がすっぽ抜けるのは、やはりそこに何かタブーのようなものが働いているからではないだろうか、そしてそのタブーは、蓮實氏のいう「声のタブー」と密接にリンクしているのではあるまいか。
いったん話を戻す。上の吉川氏のセリフの中に、「思考にとっての、良くも悪くもノイズとしてはたらく書字への感覚」という面白い言葉がある。これは上に述べたミクと生声におけるブレスノイズと同じもののことだろうか? 吉川氏の言い回しだと、「ノイズとしてはたらく」のは「感覚」であるように読めるから、そうすると少しく意味が異なる――例えばペンが紙にひっかかるその抵抗、ややこしい漢字を書くときにむやみに時間がかかりつつ、「薔薇」とか何でこんなヘンな字なんだと思ったり、あるいは、ああ字が思い出せない、いいやひとまずテキトーでとかそういうほとんど無意識の思考のはたらき、そのような、ペンで字を書くという営為が必然的にもたらす様々な余計な感覚が、「思考にとって」「ノイズとして働く」、そしてそれらのノイズというか抵抗が、語の選択や文の流れやリズムを決定的に左右するという、おそらくはそういう話だ。では同じことを「読む」側から考えるとどうなるだろうか?「読み手の」「思考にとって」「良くも悪くもノイズとして働く」感覚、例えば手書き文字を読むときには、うわあ下手くそな字だなとか、達筆だなとか、あっ字を間違えていやがるとか、あるいは――行が長えよとか行間が狭くて読みづれえよとか、そういうのは印刷テクストを読むときにも同様にノイズとして働く「感覚」で、きれいな書体だなとか、いい紙だなあとか、そういう無意識に似た感覚にまとわりつかれながら、行から行へ視線を移動させるときのかすかな抵抗やページをめくる手ざわり、妙に目をひくインクの濃さ、かすれ、にじみ……そうしたものから「声が聞こえる」というのだろうか、それが書物の「身体性」だと?
「ピュアテクスト」ないし「シンプルテクスト」という概念があるが、ピュアテクストとは文字通り純正なテクストとして想定されるテクストのいわばイデアである。そのテクストが(通常の意味での)伝達を担わされているところの必要充分な情報量を過不足なく担うと想定される部分――わかりやすくいえば、例えば手書きで書いた原稿があるとして、筆跡のくせとか、墨の濃さとか、一行に何字書いてあるか、横書きか縦書きか、などの情報はそのテクストを読む際に必ずしも必要不可欠な情報ではなく、縦書きだったのを横組みにして一行の字数を変えて活字で印刷しても、それは同じテクストであると考えることができる、と一般にみなされている、そういう、削ぎ落したり変更したりしてもテクストを読む上でさしつかえがないと一般にみなされる類の情報を全て排除したところにあるはずの必要充分なテクストをピュアテクストと呼ぶ。そのような純正なテクストは実際には存立しえないので、このピュアテクストというものはあくまでも仮想的なものにすぎないが、ここで「ノイズ」とはその仮想的なピュアテクストにとって余計なもの、排除可能なもののことであるとすれば、それらは吉川氏のいう「思考にとってノイズとして働く感覚」を「読み手」にもたらす具体的な諸要素のことに他ならない。こうした諸要素は、むろん印刷媒体においても存在する。字詰め行数はもちろん、フォント、フォントサイズ、インクの濃さ、その他、いわゆる組版・デザインと呼ばれる仕事の領域にあるものごとだ。歌声におけるブレスノイズにあたるものは、印刷媒体のテクストにおいては組版デザインの領域にあり、この領域もまたプロフェッショナルに占有されてきた技術の領域のひとつだったのが、ウェブの時代になってこれもまた着々と一般に開放されつつある。
だがその「開放」のされかたの中にまた別の様相があらわれてもいて、上に「そのような純正なテクストは実際には存立しえない」と書いたが、実はそうでもない、かもしれない、かのごとき様相がウェブ上のテクストには与えられている。例えばブログなりウェブサイトなりを作るときに種々のデザイン情報を盛り込んだとして、そこにアクセスするにあたって個々のユーザーはそれらの情報をブラウザなり何らかのアプリなりで読み込ませて画面に「ページ」を表示させるのだが、そのさいノイズにあたるデザイン情報はぎりぎりまでそぎ落として、読み込ませないようにすることができる。例えばこの melanchologia のサイトデザインのうち最もどうでもよい要素が各パネルの配色なのだが、そんなものは閲覧にあたってブラウザのごく簡単な設定で無化してしまえる。フォントの指定も無効にできるどころか何もしなくとも環境によってまちまちに表示されうる。画像も表示しないようにできるし、もろもろの配置を解除してしまうことも以前は簡単にできて、今は少しやりにくくなったようだがよくわからない、拡張機能の中に入っているのかもしれない。わざわざそんな設定をしてまで諸々のサイトデザインを無効にして閲覧したがるハードコアな人はそう多くはないだろうし、また各ブラウザ間の表示のずれはずいぶん解消されてきたが、そのかわりに、「リーダーモード」なるものが導入されていて、これを選ぶと「テクスト」だけを選択的に最もシンプルにリーダブルな形で表示してくれる。例えば mozilla のサポートサイトにはこういう記述がある――「android 版 firefox には、すべての余分なコンテンツを排除して中心となるコンテンツに集中できるリーダービュー機能があります」。同種の機能が safari では PC でもデフォルトで使えるし、他のブラウザも似たような機能を装備可能なことだろう。リーダーモードを選択したときに表示されるテクストの形態は、ピュアテクストないしシンプルテクストというもの、ないしその理念の疑似的な呈示に他なるまい。もちろんリーダーモードのテクストにおいてさえ、何らかの表示形態が設定されなければ表示そのものが不可能であるから、フォントは選択されているし、字間行間も設定されていて、それは「メモ帳」などで読むテクストファイルのテクスト――いわゆる「プレーンテクスト」よりもはるかにきちんと「デザイン」されているのだが――要するにブラウザ・システムないしウェブシステムにおいて組版デザイン、というか形態デザインは、基本的に排除さるべき、あるいは排除されて構わないノイズとして考えられている――より厳密に言うならば、従来の紙媒体において蓄積されてきたところのプロフェッショナルな組版デザイン意識が、である。書記言語が書記言語であり、文字が文字である限り、文字はその形態および配列から逃れることは原理的に不可能だから、ユーザーがいかなる設定ないし設定解除を行おうとも、文字テクストは文字テクストたるために必要な最低限の条件、すなわち、ある字がその字であると認識可能な形態と、文が文であると認識可能な配列――行というもの――を維持するが、それ以上に形態デザイン上の何らかの要素を表示様態につけ加えるかどうかは、個々のユーザーの判断に任される。電子媒体において形態デザインは、テクストを流通へと送り出す側の手から、受け取る側、ユーザーの手へと半ば譲り渡されている。
それでも、だからといってひとがサイトをデザインしなくなるかといえばそんなことはなさそうで、今では素人でも気楽に使えるデザインテンプレートが山のように流通しており、「貴方らしいデザインを!」などという謳い文句が氾濫している一方、プロはプロで、そういう素人には及びもつかぬ洗練をめざして日々工夫を重ねつつ新たな占有領域を開拓しようとしているとおぼしく、「見やすく」「心地よく」きれいなデザインがそうして日々刻々と生み出される。むろん「新たな占有領域」を真に獲得しつつある――すでにしている――のは IT 技術とソフト・ハードウェア開発に携わる人々の手以外ではなく、例えばいやましに「電子書籍」に向かおうとする出版業界の動きは、この IT 領域に食い込むことで従来の占有領域を確保しようとする戦略以外の何物でもないと、穿った見方をすることもできよう。でなければなぜ、電子「書籍」にこだわる必要があるのか? パッケージ性、あるいは「完成形」への飽くなきこだわり、そうしたことどもが抜きがたく介在しているとしても、「書籍」に特化したデバイスの開発によって領域の囲い込みが進行することは、例えば「読みやすくきれいなテクストを電子で提供する」ことそのものにとって不可欠な条件なわけでは本来ないだろう。書物の身体性なるものが紙とインクの物質性に依拠したものであったなら、「ページ」とかそれを「めくる動作」とかを疑似的に再現することに何の意味があるのか、私にはいまだによくわからない、それはあくまでも疑似的なものにすぎないのだから。とはいえ――初期の初音ミクの声が、声として認知され聞かれうるための必要最低限のブレスノイズだけを残していた「平板な」声だったとすれば、リーダーモードで表示されるテクストはそれと同じように必要最低限のデザインノイズだけを残したベタで「平板な」テクストで、そういう「平板な」テクストをそのまま載せているサイトなど今やほとんどありはしないのだが、それでも、テクストに最良の「組版」デザインを与えることが現行のブラウザ・システムでは困難だという事実が確かになお厳然とあって、それが「組版」にこだわる人々をして「電子書籍リーダー」開発へと向かわしめる、それ自体はとてももっともなことではあるだろう、だがそれもまた別の話、芸術 Kunst としての組版がいかにあるべきかという話で、テクストの声と身体をめぐる話とは根本的に関わりがない。平板だったミクの声に様々にブレスノイズを付与していけば(これを斯界では「調教」などと呼ぶらしいが)、ミクの「歌」はどんどん生き生きした「歌」らしいものになっていく、それと同じことが、仮想的なシンプルテクストに対して行われるデザインの過程で生じるのだが、歌なら歌手、テクストなら著者の本来の生身の肉体に発するノイズをいったんぎりぎりまで剥奪しておいて、そのかわりに改めて新たなノイズを付与して加工「調教」することで生き生きした命を吹き込み流通させる、ということでいえば、それはずっと昔から、つまり活版印刷が始まって以来ずっと行われてきたことと同じで、そういう意味では印刷テクストというものは、もう15世紀からずっと、全て、ヴォーカロイドだったのである。今になって「ミックミックにしてあげる☆」とか言われても、何ひとつビビる必要はないはずなのだ。ウェブ上のあらゆるテクストは(電子書籍を別として)上記のような具合で最終的にヴォーカロイドであることを要求され、もうすっかりミックミックなところに落ち着きつつあるが、印刷文化にあってすでに、あらゆるテクストは根底においてミックミックだったのである。アニメーションのキャラクターに「現実の身体がない」かどうか、翻って印刷テクストは紙とインクという身体を持つと言えるかどうか、本当のところは疑問だけれども仮にそう言うとして、その身体が発する「声」なるものがあるとしたならばそれは生身の著者の声ではなくて紙とインクでできたその身体を持つ主体の声、であるだろう。例えば句読点にしてもむしろ書字よりも印字文化に属するものだし、そうでなくとも印字印刷は、ハンコがそうであるように、選んで並べて配置した活字平面の上にインクを乗せ紙を乗せて、ぺたっと「平板に」刷るものだ(活版は「活版」であって「平板」ではないと言う向きもあるだろうが、それもまた別の問題になる)。「批評家や文学研究者が馴らされてきた」のは肉筆の声ではなく、むしろそのように「平板に」印刷されるさいに肉筆の声をそぎ落として代わりに付与された新たなノイズを伴う声である、だがそのことがほとんど意識されてこなかった。
「行間を読む」などというフレーズを私はかつて本気で信じたことがなかったが、それが「組版を読む」あるいは「デザインを読む」ことを意味するならば納得できる。デザインノイズの精妙な調整によって構築された架空の人格主体が発する声が語っているのを聞くごとくにテクストを読んでいるというのであれば。印刷テクストが決して「平板」なものではないと感じられていたのならば、そこには明らかに、何らかの燦然としたノイズが満ちていたはずで、ただそれはすでに肉筆の著者が発したそのままのものではなく、そのノイズを発する主体はイコール著者では決してなく、あえて言うならば組版デザイナー、あるいは印刷業者、編集者、であるとまでは言いきれないがそれが大幅に混入して、イコール著者でもイコール組版デザイナーでもない、一種アマルガムの産物となりおおせた固有かつ独自の「キャラクター」がそこに出現していたということなのだ。
そういう意味で、上の対話における「彼ら[手書きでものを書くことのない若い人たち――筆者註]の文章には、裏返すことのできない声の、ある種のリアル感というか生々しさがあるはずなんです。それは僕がやってきたこと、現在やっていること、これからやりたいこととは次元のことなる「声」です」という堀江氏の言葉はなお傾聴に値する。ツイッターであれフェイスブックであれ、はたまたメールであれショートメールであれ、あるいは Word で打つレポートであれ、テクストが入力され表示されるならばそこには必ず何かしらの、必要最低限以上のデザインがあり、つまりはノイズがある、だたしそのノイズはそれぞれの「著者」の固有の身体に発するものではなく、個々の主体的な選択によらないノイズであるがゆえに、そのノイズを伴う「声」は必然的にアノニマスになる。しかしその無名性自体は、例えば文庫シリーズや叢書におけるデザインノイズの無名性と何ら変わりがない。印刷テクストに見え隠れしていた「人格」があったとすればそれはまさしく文字 character の形態と配列が織りなすキャラクター character で、それはすでに生身の著者のそれからずいぶん乖離したものだったのだから、その点、携帯メールや SNS でも変わりはしないだろうと思う。ただし、繰り返すけれども上の三人の対話は、こうした「読む」局面よりも「書く」局面に寄っていて、そのことを改めて考慮するならば、文庫本に載る本を書くのとフェイスブックに記事を上げるのとの間に何かしらあるだろう大きな違いを無視するわけにもいくまい。
ネット上の「私」――発語主体は身体から切り離されている云々ということが一時よく言われていたが、実際のところどうなのだろうか。すでに述べたように組版印刷は、手書きの原稿から手書き特有のノイズを奪い去って代わりに組版ノイズを付与するプロセスを通して、生身の著者の身体からテクストを切り離す作用を持つ。デリダ『声と現象』(林好雄訳、ちくま学芸文庫、2005)の訳注によれば、「ソクラテスは、パロールとエクリチュールを次のように対比している(……)パロールが「ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができ」るのに対して、エクリチュールは「それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く」(……)パロールが生まれつき「自分をまもるだけの力」をもった、「父親の正嫡の子」であるのに対して、エクリチュールは「自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできない」「いわば私生児である」ということだが、私生児というよりはむしろ、印刷に付されるに当ってエクリチュール・テクストはいわば組版へと里子に出されるのである。ノイズ調整を施されてどのような「声」を「装備」されてわが子がどこへ旅立つのか、「父親」は手を拱いて祈りながらはるかに見送るしかない。そういう意味では印刷テクストにおいてこそ、発語主体はその本来の発語者の身体から少なくとも一旦完全に切り離されている。ところがネット上への書き込みにおいては、この「里子に出す」という手続きが踏まれないので、そういう意味ではネット上のエクリチュール・テクストの裏にはいつまでも発語者の身体が揺曳し続けるとも言える……いや、そうだろうか? むしろ、最初から育児放棄するのに近いのではないだろうか、それも、育児が初めから親の責務ではなく「みんなの責務」であるような共同体でなら、それは決して育児放棄ではないのだし、生みの親が誰であろうとそれは子供の成育に何ら関わりのないことだ。親は子供を独占もしないが、里子に出して手放しもしない。「ゆるつながり」はまさしくこの親子関係にこそあり、一対一の絆とは縁のないアノニマスな集合体が子供らを育てる、そういう子供らもむろんひとりひとり「ある種のリアル感というか生々しさ」を持って生きる……それは印刷世代の親たち、つまり生んだ子を自ら育て、やがて里子に出すことの嬉しさや寂しさを知り、みずからもみずからの親にそのように育てられた者たちの持つそれとは「次元のことなる」「リアル感」や「生々しさ」に違いないだろう……いやむろんこんなのは単なる感傷的な物言いで、ここには署名の問題、実名と匿名をめぐる問題が深く絡んでくるはずだが、そのあたりのややこしさが、最初に挙げたミクをめぐる東氏の発言内容を安易に読解できないと思う理由のひとつでもあるから、ここではあまり踏み込まずにおこう。
印刷所に委託しなくとも、自分のプリンタで印刷すれば、その時点で「里子に出す」手続きが実は踏まれてもいる。「プリントすると自分が書いたものも全く違って見える」という現象はこの手続きと関係して生じる。これは、印刷した途端に発語主体が変わる、つまり、印刷した時点で生身の著者である自分からテクストが切り離されて別の発語主体が設定されるゆえに生じる印象だと思われるが、このいわば「自宅里子」は、しかし手続き撤回が極めて容易である。里子には出しても旅には出さないことが可能だし、里子とはいっても結局は自宅にいるのだ。以前は、里子に出すというのはなかなかに重大な決意を要求される行為だった。出してしまえば取り返しがつかず、悔やんでも後の祭りである。里親の屋敷に生みの親はそうそう立ち入れない。ああもしてやればよかった、こうもしてやればよかったと泣きながら臍を噛む日も多いだろう。十数年後にどこかのゾッキ本屋で惨めな姿をさらしている我が子に再会して悔悟の涙に暮れることも稀ではなかろう。そういう深刻なモメントは自宅里子にはない。それでいて里子ではある。「プリントするとなんか立派に見えるよね」――里子の発語主体のありかたに対して、非印刷世代の「親」たちは確かにそれ以上の意識を持ち得ないかもしれない。販売ということさえ考えなければ、それなりに「立派」な冊子を作ること自体、今ではずいぶん容易になったし、それどころか、「公開」はしても里子に出すのは嫌、という場合のためには PDF という便利なものさえ用意されている現在だから。それでも PDF の電子版より紙媒体で「書き物」を発表したいと多くの人が思うとすれば、それは一体なぜなのか、そこにはテクストとその「身体性」をめぐる文脈のほかに、保存とか、所有とか、あるいは社会的権威のありか、その他もろもろの、電子書籍の問題が内包するのと同種の社会的文脈がかずかず内包されていて、到底一筋縄でいく話ではない、とはいえこれらの諸問題も結局はテクストと身体性の問題へ帰着するとは思うのだが。
「声」のことを考えるのをつい忘れそうになるが、冒頭に述べたように、「声」というものをあくまでも生物の口腔から発せられる音、喉頭をこすりながら空気が口腔から吐き出されるときにノイズを伴って出る音として把握するならば、テクストの声というフレーズはどうしても比喩でしかない。それでも声、と言いたいなら、それはテクストが言語でできている限りその裏に想定される発語主体が発すると仮定される声であり、その仮想の声に朗読を委託されてテクストが声として響くように読まれる、そのイマジネールな声である。それはあくまでもイマジネールな声だ、なぜなら私は夏目漱石の声もカフカの声も聞いたことはないからだ。私の中で何らかの声をもってテクストが響くような気がしたとしてその声が生身の夏目漱石やカフカの声であるわけはなく、それはあくまでもテクストの裏に想定される発語主体、里親と生みの親が合体したアマルガムな、非現実な声なのだが、それでは長たらしくて面倒だからこれを簡単に「テクストの声」と呼ぶ、というのであれば特に異存はない、あるいはエクリチュールの声とでも。ただしそれがエクリチュールである限り、その声が書き手のナマの声と一致することはない。
ベタなテクストにデザインノイズを装着して発語主体を生き生きと育てるミックミックな営みは、従来はプロフェッショナルな送り出し手の専売特許のワザだったのが、ウェブ上ではそれが個々のユーザーに譲り渡されつつあると記したのだが、「ユーザー」と「読者」はどう違うのかというのも実は面倒な話ではある。デザインは「ユーザー」に譲り渡されただけで「読者」には依然として譲り渡されてはいない、という位相で語ることもありうるだろう、例えばブラウザの設定をいじることなどてんから考えないユーザーは、ユーザーというよりも従来の読者に近いともいえて、その場合は、プロの手からワザを譲り渡されているのはもっぱらサイトの作り手とかそういう、プロではないがやはり送り出し手である人々だということになる。ミクについていえば、例えば誰かがミクを使って歌を歌わせてニコ動などにアップロードする、その人をユーザーと考えれば、ミクの声にブレスノイズを与えるのは確かにユーザーであってミクの発売元ではないけれども、他方ニコ動に上がった曲を個々のユーザーが視聴するという位相で語れば、その曲におけるミクの声にブレスノイズを与えるのは、同じユーザーであるけれどもやはり送り出し手に限られる。ユーザーという呼称は、use する人を指し、何を use するかといえばソフトなりハードなりを使うので、ウェブ上で漱石を読むとしてその人はマックユーザーだったりキンドルユーザーだったりするけれども漱石ユーザーではなく、しかし漱石の読者ではある。では紙の書物で漱石を読むとして文庫ユーザーとか全集ユーザーとはなぜいわないのか? それがすなわち、ノイズ・デザインを譲り渡されているかいないかの違いなのだろう。ややこしい時代であるのだが、そもそも、作者、という概念そのものが、それほど簡明なものではない。作家の著作権なるものを確立したのはユーゴーだという説があるが、その説の当否はともかく、その19世紀ごろに、著作に対して権利を所有する者としての作者という概念が成立したとき、書物なかんずく言語作品の領域においてその概念はいつのまにか「著者」とイコールのものにされていた。一体なぜなのか、それはたいへんに複雑怪奇な物語であるはずで、本の「作者」すなわち「著者」であるなどということは少しも自明なことではなかったはずだ、なぜなら言語作品は書物なり何なり紙にのっかった印刷テクストとして刊行され流布したのだから、その「本」の作者はむろん、その「テクスト」の作者すら、イコール印刷製本業者であってもよかったし、あるいは組版デザイナー、あるいは編集者であってもよかった。むろん「版元」と「作者」の熾烈な戦いの記録はさまざまに残っては語り草になってきたのだが、それは本来、「作者」の地位をめぐる版元と執筆者の戦いだったのではなかったか?――そういえば木版刷りの『南総里見八犬伝』などの「ページ」を絢爛と埋めた組版、というか彫版ノイズの「行間」から聞こえる声があるとして、肉筆の声なるものがそれほど大きな声なのだとしたら、それはさだめし版下を彫ったイナセな彫師の声だったことだろう、なぜその名もない彫師は「作者」となりえず名もない彫師のままであったか、それは考えてみれば不思議なことだ。里親はいっさい問題にしない、生みの親だけを問題にするという習慣がいつしか非常に強固に打ち立てられたわけで、その過程には著者とデザイナーと編集人と版元とその他その他の間で(ときに莫大な金銭をめぐる)恐るべき暗闘が繰り広げられたはずであり、そのあたりを調べている人たちはたくさんいると期待されるから追って確認したいと思うが、ともあれ最終的にその暗闘に「著者」が勝利を収めたということだろう。そうなると、著者固有のノイズを剥奪して新たなノイズ・デザインを加えることで発語主体が変貌するとかそういうできごと自体を秘匿せざるをえなくなる、テクストは著者のもの、その声も著者のものというわけだから――それは語るべからざるタブーとなるのだ。そして畢竟、あらゆる印刷テクストはヴォーカロイドだということも、完全に忘れ去られることになり、そうして忘れ去られたから、今になって電子媒体が出てきたときに慌てふためく羽目になる、ミックミックにされちゃうよ! しかしまた考えようによっては、何百年も前に印刷術が隆盛になってきた時点ですでにあたふたしたからこそ、里親を無視する操作がさっそく行われ始めたのかもしれない、何百年もかけてタブーを確固なものとなし、印刷テクストはヴォカロではなく肉声だという虚偽の物語を紡ぎ営み続けてきたのだ。