呪音(漢字就是表音文字)
白川静『漢字百話』(中公新書、1978)の冒頭に、「漢字と映像」と題する一節がある。
ことばには語られる音声言語と、かかれる文字言語とがある。音声言語は直接的な伝達の方法であるから、ことばの本来的なありかたであるが、文字言語は文字をその媒材とするものであるから、いわばその副次的な形式にすぎないとする考えかたが、現代の言語学の伝統をなしている。現代言語学の祖であるスイスの言語学者ソシュールの言語理論では、語られるものこそ言語学の対象とすべき唯一のことばであり、文字言語は音声言語のかき写された形式にすぎないとする。したがって文字言語は音声言語と対等にならぶものでなく、文字は音声を写すものにすぎない。それで言語学において文字が取り扱われるときには、ほとんどその表音のありかたに関する問題に限定される。文字言語は独立的なことばの体系でありえないのみでなく、文字もまた言語における認識や表現の問題に関与しうるものではない。ことに表音機能を一義的目的としない漢字は、文字論においてもほとんど無視され、除外されているといってよい。そして西欧の研究者のそのような態度に、わが国の研究者も追随するのが定めである。(p.2)
デリダが1967年に『グラマトロジーについて』のなかでソシュール言語学における音声中心主義を批判してから10年後に、この文は書かれた。それからさらに30年近く経った2006年に白川氏が亡くなったときに、ちょっとした「白川ブーム」が起こったことは記憶に新しいが、このブームがグラマトロジーに何らかの決定的な転機をもたらしたかといえば別にそんなこともなかったようである。さすがに昨今ともなれば「文字言語は独立的なことばの体系ではありえない」という考えかたはずいぶん後退したらしいけれども、では例えば漢字言語がいかように「独立的なことば」であるかという点については、例えば2014年5月の日本記号学会でキム・ソンド氏が「グラフィックな規則としての漢字が、コミュニケーションや意味作用の記号間の関係の体系の、独立で形式的な構造をなしていた」と語ったような、そうした把握、つまり「グラフィックな体系」として独立をなすという把握が専らなのだろうかと思う。それはそれでむろんおそらく全く正しいのであろうし、白川氏の上掲書において例えば「文とは内なるもののあらわれである。天にある秩序は天文であり、人のうちにある先験的なものは人文となる。それならば文字もまた、天地間の万象がみずからをあらわす姿でなくてはならない。それは決してことばの表記形式というようなものではなく、存在の自己表現の形式そのものにほかならない。すなわちことばと同じ次元に立つところの、実在の概念化、客観化の方法にほかならない」(p.16f)と記されてあることなどには、もろもろの関連において大いに賛同するものであるのだが、それにしても漢字とその体系の最も興味深いところはおそらく、漢字というものが一方で象形文字であり表意文字でもあるのは確かだとしても、一方でかつ同時に表音文字でもあるところだろうに、と常々思うのであった。
上記「漢字と映像」の章では、続いて次のように述べられる。
映画における映像とは、製作者の思考を画面に表現として構成するものであるから、それは原理的に、絵画的方法から発達した象形文字である漢字と、その視覚的思考性において共通するところをもつはずである。その映像において表象されるところのものは、視覚に訴えるところの直接無媒介的な表現である。それで映像は映像言語として、表意文字言語と等置することができると考えられる。
もとより私は、このような言語概念の節度のない拡大を、漢字の存続の根拠としてそのまま利用しようとするのではない。しかし文字が映像であるならば、ことばもまた概念の映像である(……)
――引用した最初の段落に関しては、他のいくつかの箇所で述べた諸観点からして私は全く賛同することができず、むしろ、すぐ次に続いて記されている一文――「もとより私は、このような言語概念の節度のない拡大を、漢字の存続の根拠としてそのまま利用しようとするのではない」という一文のほうに全面的に賛同し、したがってまた翻って「文字が映像であるならば、ことばもまた概念の映像である」という箇所にみるような「映像概念の節度のない拡大」をも大いに遺憾とするものであるけれども、そのことは漢字学者としての氏への私の敬意を何ひとつ損なうものでない。このことはただ、「映像」論一般からえてして音声論が抜け落ちることと、漢字論から漢字の表音文字性への見地が欠落しがちなこととが、どうやらパラレルであるらしいことが興味深く観察されるゆえに言及しておくのみである。
さて、白川氏は、漢字の体系というものを、いってみれば宇宙の、森羅万象の体系を映し出したものとして捉えようとした人であり、universum をつらぬく一環した原理、ある理(ことわり)、それが無数の漢字の体系をも貫いているという(そういう意味では白川氏といえどもロゴス中心主義であり、漢字もまたロゴスの体系であるといえるのだが。デリダが西欧言語学の「ロゴス中心主義」を批判するときその「ロゴス」は「語られる言葉」、パロールとほぼ同義である。この件については別述)。ではそこに反映する万物原理に対して人間が文字というものを介していかに関わりを持つのかというと、ことばが持つ「呪能」によってであるという。
文は記号の総体である。内なるものが外にあらわれるものをいう。その限定的用法が文字である。文字は、ことばの呪能をそこに定着するものであり、書かれた文字は呪能をもつものとされた。
『字通』によれば、「口」という字は、従来言われていたように人間の口の形を模したものではなくて、「のりとを入れる器」の形を写したものであるという。「「口」が神に祈り霊を祀るときに用いられるのりとを納める器の形であることは(……)疑いのないことであろう」――そして「言」とは、「辛{はり}」と「口」とに従う字である。辛は入墨に用いる針の形であるから、それは入墨による刑罰を示す。すなわち言の字形は、「神に誓い祈ることにもし虚偽不純があるならば、我は神の刑罰としての入墨の刑を受けるであろう」という自己詛盟を、辛と口との二つの形態素の組合せによって示したのである」と。
口という字が、口の形を模したものではなく、呪力をもった詞を納めた容器を模したものであったとして、その字がしかしまさに「口」を意味するのであれば、それはすなわち、口というものが「のりとを納めた容器」に他ならないということであろう。この容器(サイ、と呼ぶらしい)が実際に祭祀に使われた際にはおそらく、字を書いたお札様のものを納めたのだろうということだが、この容器が生身の人間の口である場合、そこに納められているのりととは、まさに発せられんとする、あるいはいまだ発せられていない音声言語以外の何物でもあるまい。「文字は、ことばの呪能をそこに定着するもの」であるというときに、「口」という文字は、口ということばの呪能を定着させたものというよりはむしろ、口というものが発揮するところのことばの呪能を定着させたものであると考えるべきもののように思われ、であるならば、口が発揮するところのことばの呪能とは、音声言語のそれである。「口」という字は、口という肉体パーツの象形であるよりも何よりも、口から発せられる音声言語のその音声、ないし、発せられない音声言語のその発せられない音声の、あるいはその呪能の表象であるわけだ。「言」というのが、ことばの入った器に針を載せて、虚偽を語ったら罰せられる形だというなら、この字は、そうした「自己詛盟」を伴った音声的発語の表象以外の何だというのだろうか。これらの字は音声の、というよりも音声言語が発せられるその出力の表象なのである。例えばアルファベットの O がもともとどういう象形だったのかには諸説あって、投げ縄だとか瞳だとか、はたまた口であるとかいうのだが、いずれにしてもアルファベットの O よりも漢字の「口」のほうがもとの象形の名残を色濃く残しているというのなら、それはつまり、発語出力の表象であるというその表象性をよりいっそう色濃く残しているわけであって、それが色濃いほうがいっそう表音文字であるとすればアルファベットの O よりも漢字の「口」のほうがいっそはるかに根源的な意味で表音文字であるわけではあるまいか、単に、それが具体的に実際にどういう音だったかわからないというだけで。
「口」という字が、人の口が発する言語の呪能を定着した字であるとすれば、むろん、その呪能がやどることば自体はいかなるものでもありえ、あらゆる音を持ちうる。「口」という字に現在当てられている読みは(日本語でも中国語でも)「コウ」であるが、この「kou」という音はそういう意味ではいわば仮初にこの字に割り当てられている音にすぎず、言うなれば、キイボードで「口」という字を入力するためのツールとしての音声にすぎないのだと考えることもできる。つまり、(フッサール風にいえば)文字が音韻の表象であると同時に逆に実は音韻が文字の表象なのだと考えてみることも充分に可能だということだ。「口」という字がある、これがシニフィエであって、kou という音がこの字のシニフィアン、レプレザンタシオン、代替物であるという、そういう考え方が成り立ちうる――はじめに鳴り響く言葉があってその表象が文字なのではなく、文字そのものが本質的に音声であってそれ自体潜在的に鳴り響いているのであり、表記不能のその音を、kou という読みが代替的に表象している、と。別の言い方で言うなら、例えばこの「口」という字は確かにある音韻の表象であるだろうが、しかしその音韻は、kou という音韻そのものではない。呪能、すなわち、アルファベットをもっては表象不可能な音韻を、文字は本来表象しているので、その文字の「読み」は、その文字を代替的に表象しているにすぎない。アルファベットをもっては表象不可能な音韻とはつまり、アルファベットの立場からすればノイズに他ならないだろう。表音文字をもって表象可能な音韻がいわば楽音に当たるとすれば、そこからはみだすブレスノイズにおいて呪音がある、つきつめればことばの呪の力はブレスにあるということになる、それは当然で、呪は生物の生き死にと関係がある、つまり呼吸と関係があらねばならないからだ。象形文字の形態デザインは、まさしくその音声ノイズ、音声文字では表記不能なブレス、呪の表象に他ならなかった――と、そのように考えてみることは、果たして世迷言なのかといえば、必ずしも、そうとは思わない。ただ今はそうした考えも少しく有益であろうと言えるのみであるけれども。
例えば、70年代のNHKドキュメンタリー『巨大開発』の冒頭、題字とともに入ってくる禍々しい弦楽器の音楽はいったい何であろうか。あえて言うならばあれは字が鳴っている音であって、あそこであのような手書き風の書体が選択されているということは、あのタイトルに、その書体によって、その書体に相応する音声ノイズが与えようとされている、ということである。その題字には、アルファベット表記不能な呪音が定着されているはずであり、そこに音楽が差し込んでくることによって、いわば、文字そのものにおいてあらかじめ鳴り響いているはずの音声が可聴化される、つまり実際に耳で聞くことのできる音声がそこで与えられるのである。あの音楽を聴いているとき、それはつまりあの題字を聴いている、そういうふうに聴かされる構造になっている――こうした構造に由来する現象を、一般には、「字体と音楽がすごく合ってるよね」とかそんなふうに言い表したりするのだが。あの四文字の形態において鳴り響いているはずの音を、四文字と音楽とが相携えて表象しているのである。まあそれもデリダにいわせれば、鳴り響いているはずの元の音声などというものはそもそも存在せず、それ自体が表象ということの表象であって、四文字と音楽が音声の表象だというのも結局は表象の表象の表象にすぎないということになるのだが、それで一向に構わないではないかとも思える。