連句アニメーション『冬の日』 (2003) 冒頭一篇における世界出力、ことに音と音楽について

 

 

白川静氏によれば、『諸橋大漢和辞典』は特に起源の字義に関して誤りが多いのだそうである。しかしながら、誤っていようといまいと興味深い記述が、『諸橋大漢和』には数多くある。例えば、「闇」という字は門ガマエに音と書く、これは、閉ざされた場所で音だけが聞こえる状態、を意味するのだという。閉ざされた場所、とはこの場合、光のない場所、を意味する。「間」という字は旧字は「閒」で、いずれも、門が閉ざされているその隙間から日ないし月の光がさしこんできている状態をあらわし、翻って、門ガマエは総じて、光がなく暗黒に閉ざされている状態、を指すのだというのである。それで、「闇」という字は、光がなく暗黒に閉ざされたところに音だけが聞こえてくる状態であるというわけだ。このとき音は、あたかも日月の光のように暗黒の間隙から射し込んでくるものとして把握されていることになる。光がない状態を闇と呼ぶのではなく、光の代わりに音だけが射し込んでくる状態を闇と呼ぶ。

アニメーション『冬の日』を見る。といっても、『冬の日』は世界各国35名の作家による連作の全体を指すタイトルで、いま見たいと思うのは冒頭の、ユーリ・ノルシュテインの手になる数分に満たない一篇のみである。連作全体におけるこの一篇の位置づけは問題にしない。「連作」を「連作」たらしめている芭蕉一派の連歌―各篇の直前に必ず付されている五・七・五ないし七・七の句、したがってノルシュテインの一篇の直前に付されている発句も、ここでは問題にしない。発句画面が終わってアニメーションが始まるところから、それが終わって次の句の画面が始まるまで、を、ここではひとつの完結した作品として見る。
   すでに何度も見たものを、何十度目かに再び見る。何度も見るのは端的に心惹かれるからであるが、その心惹かれかたに何がしかの不穏さがあって、それが気になるからでもある。何が不穏なのかわからないまま、紅葉が散って冬枯れの景色が訪れる頃になると、見たくなる。
   見る、といっても、実は本当は、見ている以上にまず聴いているらしい。落ち葉を踏みしめる音、風の音、キツツキが木をつつく音、シラミをつぶす音、背中をかく音、その他いろいろな音。それらがどういう音であるのか、それを私は画面の映像から知る。もちろん聴くこととその音の正体を知ることつまり見ることは同時的に起こるのだが―そしてその画面には小さい男がいて―厳密にいえば、アニメーションだから、男のような姿をしたモノであって人間ではないし、そうでなくともあの風体ないしたたずまいをしたものを「男」と呼ぶのは何かそぐわない感じだから、「青い服のモノ」とでも呼ぼう、とにかくそのようなモノがいて、その青い服のモノが、聴診器なぞを当てていろいろな音を聴いている。私が聴いているのは、そのモノが聴いている音なのかどうなのか。いろんな音はむろん録音された音で、でも録音機はすでにここにはないから、カメラがすでにいない状態で画面に残っている視線を残留視線と呼ぶなら、録音機がすでにいない状態で残っている聴覚的な、「視線」に当たる何物かに関しても何か同じような呼びかたで呼ぶべきものがありそうなものだが、視線、という言葉に当たる聴覚的なタームはない。聴線、とは言わないし、まなざしというけれど耳ざしとはいわない。目は、「視線を投げ」たり、「まなざしを向け」たりしていわば収斂的直線的な志向性を放射するものとして一般に把握されているようであり、それに対して耳は、すましたり傾けたり、耳そのものをどうかするというタームはあっても、耳から何か志向性が発せられるという観念はないようで、総じてあくまでも受動的なものとして把握されているとおぼしい。目のほうは非常に能動的に捉えられている。端的に目は閉じられるが耳は閉じられないというのが大きな理由でもあろう、耳はそもそもただの穴なのである。逆にいえば、音は向こうから耳へ入ってくるもので、視覚像は目のほうから向かっていくものだという把握が一般に何となくあるようだ。耳は受動的で目は能動的だということであるならば、逆に音は能動的で視覚像は受動的なものだということになろうか。
   残留視線の不安―つまり、個々の画面がこのように四角く切り取られた形で構成され、それらの画面がこのように切り替わりつつ連続していくそのありさまを、そのような形で見るという選択を行っているのは私ではないのに、なぜ私はそのように見ているのか、本来そのような選択と構成を行った主体であるはずの(製作者が背後に控えた)カメラはすでにここにいないのに、そのように選択された視線だけが残っている、私がいま強いられているその視線の主体はいったい誰なのかという不安の由来は、そもそも、目で見るものというのが、見られるそのものと見る私とが同じ場所にいない限り見えないものであるということに大きく拠っている。例えば私がキツツキを見るとする、そのとき私がそのキツツキと同じ場所にいない限り私にキツツキは見えない。この場合、同じ場所にいる、というのは、それが見える場所にいる、ということであって、トートロジーなのだが、言い換えれば、そのものが、姿形が見えるという状態を出力しているその場所と、私がそれを見るという形で私の出力を行っている場所とが、間を隔てるものなく連続していなくてはならない。間を隔てないというのはこの場合、私がキツツキを見ることにおいて、キツツキがどこにいるかを知り、そのものと私自身との空間的位置関係を把握することができるような、そういう空間連続性がそこでは必要とされるということを意味する。撮影された映像の再現を見るときに不安になるのは、何であれものが見えているのに、そのものと私自身との空間的位置関係を把握することができないからである。私が把握するのはそのものが映っている画面と私との位置関係だけであり、画面にキツツキが映っているとき、およそキツツキなどが見える場所に今私はいないはずなのにキツツキが見える、という矛盾を、把握された画面と私との位置関係は決して解消してはくれない。ところが聴覚のほうはどうかといえば、その音を出力しているものと、その音を聴くという形で出力している私との間に、必ずしも今述べたような意味における空間連続性は必要とされない。壁の向こうで誰かが何かしている音を聴くこともできるし、地下でマグマが騒いでいる音を聴くこともできる。音が聞こえるとき、私は必ずしも、その音を出力しているものの存在している場所を把握しない。つまり、音が明瞭に聞こえても、音をたてるものと音をきく私との空間的位置関係はそれほど精密には把握されない。森を歩いていて鳥の声がする、姿は見えないというとき、鳥はどこかそこらにいるらしいがどこにいるとははっきりわからない、鳥が、あ、あのへんにいるな、と思っても、目で見て、あ、あそこに鳥がいると思うときほどに精密にその位置を把握することはかなり、おそらくかなり訓練しないと一般には困難である。どこか遠くで救急車のサイレンの音がするとき、遠くのどこをどう救急車が走っているのか、場所の大体の見当はついても、救急車と私との空間的位置関係の厳密正確な把握はまず困難である。キツネやフクロウはともかく人間の聴覚というものは概してその程度のものである。映像における残留視線の不安のようなものは、音声的には実はあまり突出的には観察されない、なぜなら音というものがそもそも本来的に不安なものだからだ。それは根源的に、どこか不明な場所から聞こえてくるものなのである。音声というもののこの根源的な不安に対したとき、映像はむしろ解消的に働く側面をもつ、つまり、なぜそれを見ているのかわからない不安はそのままながら、それよりももっと根源的に不安な到来のしかたをする音に対して、その音の発生源―発音主体とでも呼ぶべきものの形姿を、あるいは発音主体の存在している在処に関する「大体の見当」を、仮構的にであれ映像は与えてくれるからだ。音声と、その発音主体の形姿ないし在処との対応は、この作品ではとても顕著である。それはこの作品がアニメーションであることと関係があるだろう。アニメーションは実写と異なって映像および音声の一から十まで人為的に構成される、あるいは、されうるものである。作品において出力されてあるべき音声に対して、その音声の発生源ないしその在処の指示に特化された形で映像を出力することは、実写において可能であるよりもはるかに高精度で可能である。この作品において映像がそのような意図をもって作られていると主張したいわけではない。それは証明不能である。しかしながら私はこの作品を見るさい、まずは聴こえてくるさまざまな音を聴き、それに伴って、それらの音が発生している場所のありさまと、そこで生じている―したがって様々な物音を立てているものごとの生起を見ているのだという感じが濃厚にすることは確かだ。いずれにしても、耳は穴であるから、ある音が聞こえてくるとき、それが聞こえる範囲内に誰かがいて、その者に耳があるなら、その者はその音を聴いてしまうであろう。画面上にうつっている音の発生源、その場所の「大体の見当」の近くに誰かがいて、その者に私と同じ程度の聴力があるなら、その者は、私が聴く音を聴くはずである。上記のような「感じが濃厚にする」理由のひとつはおそらく、私が聴く物音が発生しているとおぼしい紅葉散る雑木林に、まずは「音を聴く者」として青服のモノが登場するからである。
   彼は音を聴くことを楽しむようである。樹木医のように立木の幹に聴診器を当てて、聴いては、踊るように飛びはねながら雑木林をあるく。聴診器を耳に当てるとき、何がしかの音を彼は全身で聴いているかのようである、つまり聴くことにおいて、聴くという受動的な行為において、全身的に、能動的出力を行っているかに見える。全身的に、とはどういうことか。この作品はいわゆる紙アニメと呼ばれるもので、絵をかいて色をぬった紙の人形、というか人形の部品―平らな手足や目鼻をばらばらに作っておいてそれらを少しずつ動かしたりとりかえたりして一コマずつ撮影していく、それをつなげて映すと動くという、おそろしく手間のかかる手法のものであり、どんなアニメーションでもそうだが厳密な意味での被写体というものは存在しない。むろんカメラで撮るのだから一枚一枚の写真の被写体はあるわけだが、生きて動いているのを撮影するわけでなく、全ての撮影が終わって連続で上映されたとき、そこに映っている限りにおいて動くのであるから、そういう意味では被写体はない。アニメに登場する人物ないしモノというのは、うつっている限りにおいて動くために一から十まで構築された存在である。生身の人間でも、一生懸命何かに耳をすましているとき「全身で聞いている」と言われることはある。でも全身で聞いているかのように夢中で何かに耳をすましていても、呼吸はしているだろうし、まばたきもするだろうし、指や足を動かしたりもするだろう、それは生身特有の、「全身で聞いている」という言い方がふさわしいと思えるほどに一心にきいていてもついそこからはみだしてしまう余剰出力とでもいうべきものである。一方アニメーションの人物も、「全身で聞いている」といえるような姿をしていても、やはりまばたきをしたり指や足を動かしたりもするかもしれない、仮に作者が、ある人物に「全身で音を聴いている」ような形姿を与えたいと思ったとしたら、そしてその形姿ないし風情、とでもいうべきものに、できるだけ生身の人間のそれに近いような自然なリアルさといったものを与えたいと思ったとしたら、まばたきをさせてみたり、足をもぞもぞ動かしたりさせるかもしれない、でもそれは、やはり一から十まで、「全身でものを聞いている」姿を出力させるために構築する動きのディテールでありうる。それは、実写映像で、「全身でものを聞いている」演技をしている役者をカメラが撮影するときとは違う。演技をしている役者は、どんなにその演技が完璧であっても、生きた人間であるからには何らかの余剰出力を必ず行うし、カメラはそれを必ず撮影してしまうし、それは画面に映しだされてしまう。でもアニメーションの人物は、演技をするわけではなく、余すところなくあらかじめ構築されるわけで、彼には余剰出力というものはない。あえて言い換えるならば、アニメの人物は決して不随意運動を行わない。もっとも、そのことは、アニメの人物のしぐさはどんなに細かいしぐさであっても何らかの記号的意味を付与されているのである、ということを必ずしも意味しないだろう。端的にアニメの人物は、何かをするときに、その出力行為において厳密に文字通りの意味で全身的であることが可能である、生身の人間にそれが可能であるよりもはるかに高い確率で可能である、なぜなら原理的に常にそれが可能であるから、ということである。とはいえ、そのようなことを述べたからといって、あの青服のモノが全身的に音を聴いている、ということを証明することにはやはり全然ならないのだが。それに彼が聴診器を木に当てて耳をすます時間は、いつも、とても短い。一瞬、聴診器を当てた姿で静止し―その静止は実写におけるよりもはるかに完全な静止であるが―すぐに、飛びはねながらよそへ行ってしまう、そのありさまは、全身的に音を聴いているというよりもむしろ、そのつど音を聴こうとするのだがつい気が散って次々と場所を移してしまうようにさえ見える。彼が聴いているであろう音と、私が聴く音とは、厳密には一致しない。一致するようでもあり、しないようでもある。私の耳に突出して響いてくる、白黒の鳥の声、あるいはキツツキの音は、彼が聴診器で耳をすますタイミングとは多少、あるいは相当に、ずれている。木の幹の中の虫の活動を彼が聴くとおぼしいとき、私の耳にも確かに虫の活動の音のような音が聞こえるけれども、それは彼が聴診器を当てる前から私には聞こえていて、彼が聴診器を当てた後もその音量・音質が変わるわけではない。そして彼はすぐに虫を聴くのをやめて、ふいっと去ってしまい、その後に飛んできて木をつつくキツツキを彼は見ないし、そのキツツキの音をも、おそらく聴かないのではないか―聴かないのではないか? 彼が聴診器を当てていないときに、あるいは、当てているときにすら、私が聴いている音を、彼は実はほとんど全く聴いていないのではないのか? 散り敷いた落葉を笠ですくって、ざっと被ってあそぶ、そのときに私が聴く、紅葉がざっと降る音すらも? あの青服のモノは実は、聴診器を当てることによってしか―聴診器の中から聞こえてくる音をしか、聴くことができないのではないのか。だからあのように気ぜわしく木から木へ、聴こえる音を探して移り歩くのか。彼の聴覚出力は、聴診器=補聴器を必要とするそのような限定されたものであるのではないのか。
   聴覚が視覚にくらべて相対的に受動的な知覚であるにせよ、いかなる感覚知覚をも、それが感覚知覚経験の累積に寄与する限り私は「入力」ではなく「出力」であると考えることにしている。私がキツツキの音を聴きその姿を見たと思ったとき、そのキツツキの音と姿とを、見聴きするという形において私は出力している。それはアクションであり、世界への働きかけである。そのように考えることを前提とするならば、私が仮に全身的に聴覚出力を行うとすると、そのとき私にとって世界は、そこで私が出力する=聴くところの音のみによって構成される。聴覚以外の全ての感覚が完全に欠損した人間がいるとすればその者にとって世界がそうであるであろうようにだ。しかしながら一般的に人間の感覚は聴覚だけに特化されていることは稀であり、「全身的に聴いて」いるかのようであっても、味覚はともかくとして触覚・嗅覚・視覚は幾分なりとも同時的に働き、出力が行われる。
   青服のモノは、視覚出力のほうはどうなのか。私が視覚出力するところの、彼が聴診器を当てている木や落ち葉が散るありさまを、青服のモノが同じように視覚出力しているかといえば、それは、していない。この作品にはいわゆる主観ショットはほとんど(おそらく全く)存在しない。青服のモノが何かを見ている―視覚出力を行っているとして、その出力の様態がどのようであるかを知ることはできない、それは、不明である。彼は何かに目を向ける様子をすることはするが、あるかなきかの小さい目をしょぼつかせ、しばたたいていたりして、彼の目に―目のように描かれたそれに―いったい何か見えているのかどうか、不明である。ほとんど見えてはいないのかもしれない。私が出力する、明るい光に満ちた落葉の木立、空や、舞い散る紅葉、キツツキの姿を、彼は全くあるいはほとんど出力していないのかもしれない。彼にとって世界は「闇」といわずとも薄闇であるのかもしれない、さまざまな音の聞こえる、明るい木立、空、鮮やかな紅葉という形で私が視聴覚出力しているものは、彼の薄闇に他ならないのではあるまいか。補聴器を当てるときにだけ、それも時たま射し込んでくる物音、小さな虫や何かの―暗闇を踏み迷う者をわずかな光が導くように、それらの物音が彼を導いて雑木林を遊ばせている。薄闇の中でわずかな音をかろうじて聴きながら、落葉を踏んで飛び歩く、そのようなアクションを出力する青服のモノを、木立や空や鮮やかな紅葉に囲まれて耳を澄ます彼を見るという形において私は出力する。彼がどうしてあのように、木にぶつかって転んだりせず軽々と飛びまわることができるのか、ほとんど不明である。
   黄色い衣のモノのところへ何が彼を導いたのかも不明だ。青服のモノは立ち止まり、荷物を下して、黄色いモノのかたわらに座りこむ。そして眼鏡をかける。眼鏡をかけるということは、眼鏡をかければつまり何がしかのものは(よりはっきりと)見えるらしいが、どのように見えているのかは、相変わらず私には不明であるけれども、私が見ている黄色い衣のモノを(別の角度からではあれ)彼は見ているらしかった。聴診器をとりだして、シラミをつぶす音を聴く。その音を私も聴く。むろん、彼の聴覚の様態が判然としないために、厳密にはやはり、私が聴いているその音が彼が聴いているそれと同じであるかどうかはここでも不明というほかはないのだが、ぷちり、というその音を、あたかも彼と私とははじめて共有するかのようであり、そのことが何か幸せな感じがする。ここで、聴覚出力の共有あるいは共有のかりそめの幻想が生じるのは、彼が眼鏡をかけたことと関係があるのだろうか? ―そこへ、そのとき、あろうことか音楽が介入してくる―弦楽の音が射し込んでくる。光が射すように射し込んできて、ちょうどそのタイミングで青服のモノは眼鏡を、その奥の目(のようなもの)を、きゅっきゅと拭き、擦る、その音を私は聴く、それと同時に、音楽が鳴る。あの音楽は、見ることと関係があるらしい―聴くことではなく。あの音楽は、いわゆる off のBGMであって、青服のモノが耳をすましている音楽ではない。彼がいる場所で鳴っている音声ではなく、つまり彼が出力している音楽ではない。そもそも音楽と音はどう違うか。音楽は、たとえば鳥の声でも虫の声でもあるいはガラス瓶が割れる音でも、聴いた人が、ああ音楽だと思えば音楽であるというところが、他の音一般とは決定的に違うところであろう。例えばキツツキの音というものは、キツツキという生き物が発する音声であるという定義をなしうるが、音楽はそういう、何がどのように発する音が音楽であるという決定的な厳密な定義を持たない言葉である。ある人がキツツキの音のようなものをきいて「ああ、キツツキの音だ」と思ってもそれは本当はキツツキの音でなく何かの音楽のパーカッションの一部だったということがありうる、でも、ある人が何か音をきいて「ああ、音楽だ」と思ったら、それは本当は音楽ではなかったということは原理的にありえない。誰かがコオロギの音をきいて「ああ、音楽だ」と思ったとき、別の誰かがいやそれは違う、あれは音楽ではなくてただの虫の声であると言ったとしてもそれは単なる見解の相違にすぎない。「音楽」とは今はもっぱらそういう抽象的かつ観念的なタームであるのだが、この作品においてこの局面でワンフレーズだけ鳴る音楽は、鳥の声とかガラスの割れるノイズとかですらなく、明瞭な楽音と音階から成る西洋音楽であって、あれは絶対に音楽以外の何物でもない。楽音というものの特異なところは、思うに、ほんのワンフレーズどころかほんの一瞬きいただけで、それが音楽であると(その楽音が楽音として認知されている文化圏においては)ほぼ例外なく認識されてしまうところだ。コンクレートミュージックあるいはノイズ、楽音でないものを使った音楽は、一定の時間持続するのをきいて、そこに一定のリズムないし呼吸が構築されていることを確認しないと、それが音楽である、あるいは、音楽でありうるという認識はなされにくい、つまり、上記の「見解の相違」が生じやすく、ガラスが割れる音を使った音楽を一瞬だけきいても、それは単なるガラスの割れる音としてしか聴かれない可能性は高い。しかしバイオリンの音は、いかなる断片であっても、それが音楽ないし音楽の断片であってそれ以外のものではありえないと瞬時に認知されてしまう。楽音音楽は一瞬において、全的に訪れる。
   先述のように視覚は聴覚に比べて相対的に能動的なものとされているにしても、まなざしのほうから向かうのではなくて向こうから来るとしか言えない「見もの」がある、それが光で、純粋な光だけはどうしても向こうから来る、それは射し込んでくるものであって、光が射し込んでくるとき目は、それが射し込んでくる穴であり、ほとんど耳である。青服のモノが眼鏡をかけて、見る出力を開始する、あるいは聴く出力から見る出力にやや移行するように見えるときに、彼がそうして何を見るのか、その出力を私は共有できず、彼の見るものは私の目にはうつらないが、そのかわりに、音楽が射し込んでくる。いわば私は、眼鏡をかけて彼が出力するものを、音楽を聴くという形において出力する。私は彼が見ているものを聴くのだ。彼は音楽を聴いていないが、斜め背後から黄色いモノを見ている、その角度から青服のモノによって見られている黄色いモノを、私は聴く。私が聴いているものを彼は見ている、彼が見ているものを私は聴いている、それはひょっとしたら違うものかもしれないと考える理由はない、そもそもそれらは違うものに決まっており、しかしながら、それらが同一のもののそれぞれ視覚的・聴覚的側面であると考えることを阻む要因は何も見出されない。視覚と聴覚とに分断されながらも、むしろそのように分断されているがゆえに、青服のモノと私とは、そうして視聴覚出力を初めて全的に共有する。眼鏡をかけて黄色いモノを見ている青服のモノの表情はとても至福的で、私はその顔を見るのが嬉しくてその顔ばかりを見てしまい、黄色いモノをじっと見つめる余裕がない。前から気になっていたことのひとつは、あの黄色い衣のほうのモノがどうもなぜか視覚的には盲点に入っているような感じだということで、いつも最終的には視覚的印象からすべり落ちてしまい、ラストシーン近くで向い風にあらがいながら歩いていくのがその黄色いモノだということすらすぐに明瞭には認識できないような、そういう影の薄さがあの黄色いモノにはあって、それが気になっていたのだが―どうやらあの至福のシーンにおいて、黄色いモノは私の出力においては本質的に音楽へ変換されるらしいのだった。彼、あの黄色いモノは、何者なのだろう―仏? そうかもしれない。それは射し込んできた光に等しい。そこは薄闇であることをやめて、澄明な光に満ちた、色鮮やかな紅葉の散る、冬の、さまざまな物音のする林の中、賑わしくも穏やかな楽園となる。しかしそれはほんの一種のことで、青服のモノが黄色いモノの背中を掻いてやろうとする、つまり視聴覚出力からさらにもっと別の身体出力へ移行しようするとたんに、画面は暗転し、音楽は止んで、時間が飛んでしまい、場面が切り替わると、青服のモノはすでに眼鏡をかけてはいない。
   彼はもう音に耳をすましてもいない。黄色いモノの身なりを整えてやったりボロ衣の穴からのぞいたり、むしろ触覚的なというべき身体的なアクションをもっぱらにしていて、そのことが私の目には見えるし、そのアクションが発する音は聞こえるけれども、彼の触覚の様態について知るすべはなく、彼と私とはすでに何らの出力をも共有してはいない。さきほどの一瞬の至福の余韻のうちに私は、青いモノが黄色いモノと笠をとりかえて別れてゆくのを見るが、いったん音楽に変換された黄色いモノがしかしもはや音楽として聴こえてこなくなっているためか、あたかも突然にあらわれた形姿のように、はじめて見るもののように黄色いモノを見てしまい、それが何なのか、青と黄色のモノの間で何が行われているのか、自分がなぜ何を見ているのかすでに再びよくわからない、例の残留視線の不安が回帰してきて、その不安に同調するかのように突風が吹いて、画面が揺れる。至福の瓦解―それは暗転時にすでに瓦解しているのだが―その瓦解の動揺が、遠い地震がもたらす津波のように視聴覚的に出力される、もっとも、そこに何か悲劇的なものがあるわけではなく、その動揺はむしろ、思いがけないときに思いがけない形で至福が訪れたりすること自体が世界におけるひとつの大きな動揺に他ならないと思わせるような、つまり至福そのものを内包した動揺として出力されるのだが。私はここにいる、彼は彼の世界の中をゆくだろう。彼が行くその世界がどのようなものであるのか、彼がいかなる世界を出力しているのか、それをすでに私は一切出力できないが、その世界の中で彼が発する気合を私は聴く。それが気合であることは画面上から目で知ることができる。声を発すること、それは見ることよりも聴くことよりもいっそう能動的な出力であり、気合とは、発声出力の能動性が極限的に発揮された発声形態に他ならず、そして気合は常に全身的に発せられるべきものである、全身的に発しない限りそれは気合とはなりえない。彼がその気合を、喉から口を通して発しているのかどうか、それは定かではない、その気合が彼の、口のように描かれたものから出ているのかどうか、むしろそうではないように、あの深いエコーのかかった声は文字通り全身的にあの青服のモノから出力されているように聴こえる。私は彼が全身的に出力を行っているその姿を出力する、それは彼の世界出力の気合であるだろう、彼のその世界出力行為を視聴覚出力しながら私は彼から遠ざかっていく、画面は少しばかり俯瞰になり、あたかも突風に吹き飛ばされるようにその気合に私は吹き飛ばされ、笠が飛ばされるのを青服のモノが追うのと反対の方向に黄色のモノが笠をかざして向かい風に向かって歩いているのを別々にしかしほぼ同時に見ながら、轟々と鳴る風の音に吹きまくられ舞いすさぶ落葉に目をしばたたかせて、ここはどこなんだろう? 私は何を出力しているのだろう、彼らは何を出力しているのだろう? 梵鐘の音が聴こえる。梵鐘の音―それは、楽音と非楽音とのちょうどあわいにあるような音であると同時に、この作品にあってBGMとそうでない音とのあわいにあるような音でもあり、つまりは青いモノや黄色いモノがひょっとしてそれを聴いているのかもしれないがそうでないかもしれない、ちょうどそのあわいにある音であって、私が聴いているものを青や黄色の彼らが聴いているのかどうかわからない状態で私が出力するのにこれ以上ふさわしい音もないような音、それが彼らの出力でもあるのかどうかわからなくて当然であるという不穏さにおいてこの局面に最も同調的であり、同調的であるがゆえにこの上なく平穏な、ほとんど寂滅的に私の惑乱の中に射し込んでくる縹渺たる光のような音なのだった。梵鐘の余韻が消えるときそれと同調して、あの至福の余韻もまた、動揺の余韻とともに失せる、それはまた作品が終わるのとほぼ同時である。


(一橋大学言語社会研究科2009年度紀要『言語社会』第四号所収)
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