Lourdes Castro: Grand Herbier d'Ombres. Assirio&Alvim, 2002.
ポルトガルの作家、ルールデシ・カストロの作品集『影の植物園』より。これは、感光紙を使って、草や花やいろいろな植物の葉っぱなどに光をあてて焼きつけた、一種の日光写真集である。具体的にどのような操作と処理を行うのか――どういう光を使って何分くらい感光させ、どのように定着させたのか等、詳しいことを私はまだ知らないが、ともあれ色々な植物のシルエットが右ページに載っており、左ページの左上隅にはラベルが印刷されていて、その植物の学名と一般名および原産地などが書いてある。図鑑あるいは標本集の体裁である。
この本そのものは物体であって、ひとつひとつの頁も物体だから、映像作品とはいえない。映像とは――私の定義によれば――映っている限りにおいて存在するもののことだから、これは映像作品ではない。これはルールデシ・カストロ氏の作品としてとても美しい本になっているのだが、これらの写真一枚一枚を作ったのは誰なのかと考えると、少々不思議だ。むろんまずは生身のルールデシ・カストロさんというひとがそこにいて、植物をこう配置して、距離はこうして、光の具合はこうしてとあれこれ工夫をして、ぱち、と明りをつけたりする、あるいは、さ、とカーテンを開けたりする。そしてじっと、たぶん葉っぱが揺れてしまったりしないようにじっと静かにして、何分かそのまま待っている、あるいはひょっとしたら待っているあいだにそっとお茶を喫したりしているかもしれない。そのあいだ、じーっと紙に影を焼きつけているのは、光であり、その光に照らされた植物であり、その影を受けとめている紙である。頃合いを見計らってカストロさんが、よしここでストップ、と思ってぱち、と明りを消す、あるいは、さ、とカーテンを引く。それ以上感光しないように紙の上に黒いものをかぶせる……と、そんなふうにして作るのかどうかわからないが、例えばそんなふうに作るのかしらと思う。それから定着のために何かするのかもしれないし、しないのかもしれない。ともかく感光紙の上に定着する。で定着したものを、本にする過程で写真製版して(おそらく)本にするのだけれども、その製本過程は捨象して考えよう。感光した紙に像が定着された時点で、作品ができあがると考えることにしよう。でともかく、何分かあるいは何秒か、感光という重大なことが行われているときに、それを実際に行っているのは光であり草であり紙であって、それらのものがそうして働くのを、カストロさんがやさしく見守っている。そうしてできあがったものは、カストロさんと光と草と紙の共同作品で、草の名前は左ページ隅のラベルにクレジットされているけれども、この草の日光写真がこの本の右ページにそれぞれ場所を与えられて存在し世間に流通するにあたって、その存在と流通の責任を引き受けるのはこの草ではない。手と目を働かせて装置をしつらえた後お茶を飲みながらじっと待っていたやさしいカストロさんでもない。それを引き受けるのは、左ページ隅のラベルではなく本の表紙と背表紙に名前の書いてあるルールデシ・カストロというひと、作品主体としてのルールデシ・カストロである。
左ページ隅のラベルは、だから本当はむろんクレジットではなくて、むしろいわば私たちが夏休みの植物採集をして、植物を押し花にして貼って、その横に貼りつけるカードと同じものだ、ただしこの図鑑においては、この影のもとになった生きた植物が標本なのではなくて、この影が標本なのだから、ラベルに記載してある名が植物の名なのであれば、その名を持った植物はこの影自体に他ならないのだけれども。労働主体のカストロさんは、実際の庭の生きた植物をとってきて、紙と光を按配してこれらの影をつくって本にしたひとだが、作品主体のルールデシ・カストロは、この本と、そしてこの本の中に定着された影の植物たちがここにあるということに対して、負い得ない責任を負いつつ、この本とともに、またこの中に定着された影の植物たちと共にずっとある人である。このふたりの主体は、今はまだ一体のままだ――労働主体のカストロさんはまだご存命で(2014年6月時点)、もうずいぶんお年寄りだが、今はまだ、このふたりは一体でいる。でもそのうち、やがて労働主体のカストロさんがこの世からいなくなって、それから長いことたって彼女の存在が薄れてゆくと、残るのは作品主体のルールデシ・カストロだけで、こちらのカストロさんは本が存在する限り、存在する。ロマンチックな言い方をするならば、これら影の植物が定着されて茂るこの本という庭に住んでいる人として、その庭の主人として、作品主体のカストロさんはずっといるだろう。
その庭の一ページをスキャンして、このようにディスプレイに表示するのは、どういう行為だと考えればよいだろうか、植物を移植し、増殖させる――それも一本ではなく、潜在的には無数に増殖させることになるこの行為は。
これは日光写真であり、いわば、ネガがそのままポジであるような特殊なものである。つまり、これらは紙の上に定着されているという点においてポジであるのだが、光によって傷をつけられることでオプティカルなデータを取得する感光平面をネガと呼ぶ限りにおいては全面的にネガでもあるものである。それを例えばいわゆる書画カメラにかけ、プロジェクターを通してスクリーンに投影するとしよう。そうするとそれは紙の上への定着をほどくということであり、この場合定着性そのものであるところのポジ性からこれらの影を解放してしまうということに他ならないだろう。そこで投影されるものは、全面的にネガティヴなものである。ポジティヴな定着を解かれた結果、スクリーン上には本来のネガティヴィティが全面的に発散してしまう。この場合ネガティヴィティとは、そこに映し出されるものが植物の姿そのものではなくその影であるという意味での陰画性であるが、つまりそこで何が行われているかといえば、労働主体カストロさんが紙の上だか前だかに植物を置いて、光を当てる、そうして紙が光の力によって植物を知覚している、まさにその段階で起こっていたことが、あたかもここで再び起こっているかのような、そのようなことが行われているのだ、あたかも、紙が今まさに知覚しているその知覚が、「ありのままに」そこに投影されているかのように。厳密にいえばそれはやはり「あたかも……かのように」であるにすぎず、しかもあくまでも、いったん紙に定着されて本の頁になったものを投影しているにすぎないのだから、例によって決してありのままでも実物大でもないのだが、しかしそうした制作上の途中経過をすべて捨象して考えるならば、それはそのようなものである、つまり、例えばカメラが知覚した惑星の映像を出力するのと同じように、紙が知覚した植物の映像を出力することがもしできたならば、そのようなものであるだろうと考えることができるものである。紙が知覚しているまさにそのときに、その段階の知覚を出力することができるなら、それはそのようなものになるだろう――当の紙の上に定着され、頁様のものになる以前の段階における紙の知覚というものを出力できるならば。影の植物が影として本のページに定着される以前、影ではない実物の植物が影のようなものとして知覚されているその段階のもののようなものがここにうつっている、つまりは、まだ影になりきっていない「実物」の植物が今あたかも現にそこに、われわれの眼には見えないけれども、あって、その影が、スクリーンを見上げる者の目に映っている、その目の数だけある、かのように、影の植物が、その影を見る目の数だけそこに繁茂するも同然のことになるのだが、こうした事態、いわば、影の植物の一時的な増殖に対して、ルールデシ・カストロが責任をとれるのかといえば、とれるはずもない。この本には、紙が知覚したものがその紙のうえに定着された時点、つまりポジになった時点で作者カストロの署名がなされているのだけれども、それを投影してしまい、ページへの像の定着性をはぎとるということは、作者が署名する以前の段階、つまりいわば責任者不在の、まったく無制御の段階へ、あくまでも疑似的にとはいえ引き戻すことである。この行為に対する責任が誰にあるのかといえば、そこで書画カメラとプロジェクターとスクリーンを操作して投影行為を行う者――例えば私――にあるだろう。でもそれはあくまでも私の作品ではない。かといって一方ルールデシ・カストロの作品であると断言できるものは、彼女が署名したところの本であって、その投影像ではない。ではスクリーンに映っているその映像は何かといえば、それは、なんだかわからないものである。ここで例えば――「私がスクリーン上にそれを見ることにおいて伝達されるのはそのものの映像的本質であるわけだが、その映像的本質は、紙が植物を知覚していたときに伝達されていた映像的本質と極めて近しいものであるだろう、そしてまた、それが紙において伝達されていたとき、紙は、紙自体のもつ、相応する映像的本質をも、植物の映像的本質とともにどこかへ、いわゆるウ・ロゴスへ伝達していたはずだが、その、紙が知覚した映像的本質とその知覚において表現していた紙そのものの映像的本質がひとつになってウ・ロゴスへ伝達されていたその伝達において表現していたものに極めて近しいものが、そのとき私においてウ・ロゴスへ伝達されることになるだろう」などと言ったとしても、そこでスクリーンに映っているものは何ですかという問いに対する答えにはあまりならない、つまり、この本がカストロの作品であるとしたらその映像は何ですかという問いに対する答えにはならないだろう。それは、出現してしまったもの、である。そうした映像は端的に、それらの映像機器が存在しなかったら出現することはないものであり、機材が存在してそれを何げなく使う者がいることによって出現してしまうものである。そうして普通は、そんなものを大勢の目において出現させながら、「これはルールデシ・カストロという人の日光写真による作品です」などと解説したりする、そしてそこに、カストロの作品ではない、それ以後のもの――それ以前のものに近しいものであるところの――が出現してしまっていることに気づかないでいる。スクリーンに投影された映像は、ふたたび繰り返すならば、カストロの作品そのものではなく、カストロの作品が書画カメラによって知覚されたものが出力されているものであるのだが、この作品の場合、「カメラ」による知覚とその出力というプロセスを通ることで、紙への定着がほどかれ、あたかも作品以前へと逆行するような作用が生じる、それは単なる幻惑にすぎないのだが、興味深い幻惑だし、また震撼的な、おそるべき幻惑であるように思える。いまそこに映っている、という事態において「植物園」はまさしく、今そこでしか見ることのできない花園の一部という様相を呈する。そのおそるべき幻惑に対して、カストロというひとが責任を負うことはできないし、負わせることもできない、それでも彼女の作品主体としての名前は、この幻惑においてさえもついてまわる。責任をいっさい負うことができないその負い目を負う者の名前としてついてまわってしまうだろう。その名前をラベルにして映像に貼るならば、とても丁重に、細心の注意を払って行わねばならないだろう。たとえこの疑似的に再生された影の花園がいかに美しく思われ、その美しい花園の主としての彼女に最大限の敬意を捧げ、その功績を顕彰するのが私の「意図」であるとしても、そのような、労働主体としての私の内なる意図は、受容者における出力には何の関わりもないからである。
ここに上げた画像はむろんスキャンであるから、書画カメラで投影するときのようにポジからネガへの疑似解放が生じるわけではなく、あくまでも色彩と明度のデータが複製されるだけで、疑似解放の表面的な模倣のようなものが生じるにすぎないのだけれども、それでも、ディスプレイはそれ自体が発光するから、あたかも光と影でできたものがそこに投影されているかのように見えるものが出現するには違いない。そのように植物を映像化して増殖させるのは私である、そしてその映像に、ルールデシ・カストロという名前を書いたラベルを貼る。だが、この二次的な増殖、それも、「元の」植物からは、書籍化及びスキャンの手続きを踏む過程で幾分なりとも変異しているはずの植物の、おそらく無際限の繁茂――いわばちょっとした生態系の乱れに関して、彼女に責任を負わせることはできない。責任を負うべき者がいるとすればそれは私である。責任主体としての私の署名はHTMLに記載してある。