実物大の夕日
2007年に秋葉原の小さなギャラリーで「It’s small world!」と題する個展があった。そこで十枚ほど展示されていたのは、そこで配られていた解説チラシによれば「街で拾った潰れた空き缶を家庭用スキャナーでスキャンし、それを専門業者で印刷(ジェットプリンター)したもの」で、それが一枚ずつ、記憶によればおおよそタテ1メートル、ヨコ60センチほどのフレームに納まって壁に掛けられているのだった。それらは生々しいほどに鮮明で、車に轢かれるなどしてペチャンコに潰れ縦横に傷ついた缶は、それぞれがあたかも一個の缶であることをとうに閑却したごとく複雑な色彩の金属光沢を浮き立たせ、ぬめぬめした七色の光を放って、真っ黒な宇宙空間をバックにしたビザールな天体のように見えた。完全に潰れきっていないものは叩いて潰すなどして平らにした缶をスキャン面に置いた上に、真っ黒なシートをかぶせてスキャンしたのだそうであった。作者は潮田文(うしおだ・ぶん)氏、一名南原四郎(なんばら・しろう)氏といい、南原企画主宰、『月光』『牧歌メロン』など多くの雑誌を手がけてきた編集出版人・企画者であり、写真家である。氏自身による一枚刷りコピーのその解説文「参考資料(「実物大」についての一考察)」の続きにはこうあった――
そのスキャンした空き缶のサイズは、大きいものでたかだか15センチ×5センチ程度で、それを出力時サイズ60センチ×20センチ程度になるように指定したものです。つまり、長さにして400%、面積で16000%程度のサイズアップを図ったのですが、これはいわゆる「引き伸ばし」でしょうか? そうではないはずです。スキャンの精度をあげる、つまり単位あたりのピクセル数を上げることで――ちょっと奇妙な言い方になりますが――実物以上のサイズが「実物大」として呈示されているのです。
恐らく、これをご覧になった方は、現在のハイテクの威力に驚かれることと思いますが(私も驚いています)、もっとも驚くべきことは、実物の4倍(印象としては4の自乗倍)の大きさの画像が、実は、「実物大」だということです。理屈っぽく言い換えると、「実物大」という観念に、本質が一致しているために、4倍だろうが、10倍だろうが、100倍だろうが、「実物大」として存在している、というわけです。
「私も驚いています」とあるが、私も驚いた。「ハイテクの威力」とその発揮の結果の怪しい美しさにも驚いたが、それ以上にむしろ「実物大」という言葉の使いかたのほうによりいっそう驚いた。「ちょっと奇妙」どころか大変に奇妙だと当時は思ったものだが、今ではこのことを理解するのにさして苦労も感じない人はおそらく多いだろう。ここで「実物大」と言われているのは、いわゆる「ピクセル等倍」のことであるとおぼしい。スキャンした画像をピクセル等倍で出力したときに、見かけの大きさが元の缶のタテヨコそれぞれ四倍くらいになるように設定した、ということだ。見かけの大きさが元の缶のよりも拡大しているという意味では確かに「引き伸ばし」を施されているように見えるが、ピクセルデータのサイズは、入力(スキャン)したときと出力したときとで変わっていない、そのことをここでは「実物大」と呼んでいる。つまり、元の缶ではなく、缶をスキャンしたときに入力されたデータを、「実物」と呼んでいるのだった。そして、「「実物大」という観念に、本質が一致しているために(……)「実物大」として存在している」とはいかなることか。通常「実物大」とは、コピーされたものの「大きさ」が「実物」のそれに「一致」していることを謂うのだが、ここでは「実物」ではなく「実物大」という観念のほうが優位に選択されており、この観念の「本質」が、実物とコピーの間ではなく入力データと出力データの間の関係に見出されている。「大きさ」とはここでは見かけの大きさのことではなく、情報の「サイズ」のことであり、「実物大」に関するこの考察においては、本来の「実物」である潰れた缶の見かけの大きさは、まさしく閑却されているのであった。
これらの宇宙缶の「写真」に混ざって、「切り貼りの森」という作品も一点展示してあった。正式には(氏の写真集に載っているタイトルによれば)「印画紙の切り貼りで作った想像上の森」という、一種の写真コラージュ作品で、「1980年前後に製作」されたところの、ひとくちにいうと無数の植物の写真の切り貼りなのだが、植物といっても、葉っぱ、ひたすら葉っぱ、草の葉っぱ、樹木の葉むら、梢、潅木の茂み、いろいろな、ともかく様々に繁茂する植物の葉っぱに最もくっきりと焦点のあたっている部分だけを数々の印画紙から切り抜いて、切り取ったその数百枚の断片を糊で貼り合わせたものである。その「実物」を実見した記憶によれば、一枚一枚のピースはおおよそタテヨコ1センチから4センチくらいで、全体は木枠のキャンバス様のものに貼ってあり、タテ1.5メートル、ヨコ80センチくらいだったようである。同じ解説文の冒頭にこうある――
「切り貼りで作った森の写真」は、30年ほど前に私がつくったものですが、今回の作品とアイデアは基本的に同じなので、参考までに展示します。
では、どこが同じかというと、この切り貼り写真は一つのピースを最低単位とすることで、現行の写真システム(恐らくデジカメを含む)の欠点である、「引き伸ばしによるピンボケ」を避けようとしたのですが、「It’s small world!」も、最低単位(いわゆるピクセル)を持つデータの集合であるという点で似ていると、私は思っています。
数百枚のピースがもとはそれぞれの写真のフォーカスポイントのごく付近であるから、全体に数百のフォーカスポイントが偏在している――厳密にいえば一つ一つのピースにあってさえ周辺はわずかにボケるのだろうが、それを誤差の範囲として等閑視すれば、画面全体があまねくフォーカスされている、といえるし、実際、人間の目で見る限り全面的にボケたところがなく、無数の木の葉草の葉が互いにかなりの奥行を持って鬱蒼と重なりあいながらそれでいて一枚一枚がくっきりと鮮明な、不可思議な「森」が出現していて、ピースを貼り合わせた継ぎ目の線がかすかに全体を覆っているのが、その森にそぼ降る雨のようにさえ見えるのだった。写真には常にフォーカスポイントがあり、フォーカスポイント以外の部分は周辺へ行けば行くほど必然的にぼやけるが、このボケを回避するそれなりの技術・手段は、70年代においてもすでに知られていただろう。しかし、仮に高精度のパンフォーカスを採用して隅々までピントの合った撮影を行ったとしても、そのネガを、人が見て楽しむことができる大きさに引き延ばして焼きつけることによって、「避けがたいピンボケ現象」が生じる。一見ボケていないように見えても原理的にはボケる。カメラは、光によってものの像をネガに焼きつける――ある情報量をもって、ある面積のネガフィルムに、オプティカルな情報を焼きつける、その際いわば一定の情報量が、フィルムの、決まったある面積のうえにおさまるのだが、通常ネガフィルムはとても小さく、それをポジにして印画紙というものに焼きなおして、手で持って人の目で支障なく見られるものにするためには、何倍か何十倍かに面積を広げざるをえない。しかし焼きつけられる情報の総量は同じであるから、当然、面積単位の情報密度は薄くなる。これを潮田氏は「引き伸ばしによるピンボケ」と呼び、これを回避したいと考えた。
ところで、「引き伸ばし」によるピンボケを避けるには、もう一つの方法があって、それは引き伸ばしを行わないこと、つまり、ネガを密着で焼くことです。そうすれば、仮にそのネガがいわゆる「ピンボケ写真」であっても、「ピンボケ」そのものが鮮明に呈示されることになるからです(この辺は、かなり観念的物言いになりますが。)ただし、これでは全紙大の作品を作りたければ全紙大のフィルムが必要となって、事実上、実現不可能です(写真草創期には、「実物大」の写真を撮ることのできる、巨大なマンモスカメラが存在したようですが)。それで、「切り貼り」にしたということでもあります。
70年代のことである。今なら――2014年の現在なら、デジタルカメラで撮影した画像を「実物大」で、すなわちピクセル等倍でディスプレイに表示させることは容易である、ただし何十メガもあるような画像を等倍で表示するためには、よほど巨大なディスプレイが必要になり、それはそれで一般人にはそうそう日常的に可能なことではないだろうが、ディスプレイにおさまる程度の小さいサイズで撮影すれば等倍呈示に困難はない。しかも、解説文には「家庭用のスキャナーで」とあり、2007年時点でスキャナーを持つ家庭はまだそう多くはなかっただろうが今ではずいぶん普及した。スキャンなら、カメラによる撮影とは異なり、そもそもフォーカスポイントとそれ以外という区別がなく、全面的に鮮明な画像がとれるし(今では立体さえスキャンでき、立体で出力できる時代である)、そうして、適当なサイズ設定さえすれば、スキャンした画像を等倍サイズでネット上において呈示することは容易どころか日常普段に至るところで行われている。しかしながら、それこそが「実物大」だとはふつう言わない。一時期のIEでは「実寸大」という言葉が使われていたように記憶しているが(そこをクリックすると等倍表示される)、今ではほぼ「(ピクセル)等倍」という語に統一されたとおぼしい。何と等しいのかといえば、データの元サイズと等しい。コンピュータ上のあらゆる画像は、各ユーザー環境によっていかなる「大きさ」にも表示されうるし、「等倍」をクリックしたとしても、PCのスペック等によって見かけの大きさは当然まちまちになる(スマートフォンやタブレットではより一層わけのわからないことになっている)。縮小拡大表示もかなりの程度に可能である。何かの画像をサイトに貼って「実物大」とキャプションをつけても何の意味もないことは言うまでもない。コンピュータ上で「実物大」ということがありうるとしたら、それは潮田氏の言うような意味でしかありえない。
このことは実はしかし、コンピュータ上に限らない。「切り貼りの森」も「It’s small world!」も共に紙を媒体とした作品であるが、根本にある考察は映像に関するそれである。氏は現在、畢生の大作としての「映像文化論」(というタイトルになるかどうかはわからないが)を執筆中とのことで私はたいへん楽しみにしているのだが、「「実物大」という観念に本質が一致」するものとは、実は映像一般に他ならない――むろんこれは「映像」の定義如何によるのであるが。
例えば夕日のことを考えてみる。通常「実物大」といえば、あるものを物差しで測ったときのサイズと、それを撮影した写真ないし描いた絵を物差しで測ったときのサイズが同じであることを指す。したがって、「実物大の太陽」の写真というものは、実際に技術的に実現可能かどうか(またそんなことをして何か意味があるかどうか)はともかくとして、理屈の上では製作可能であるだろう。印画紙に焼かないデジタル映像でも、実物の太陽を実寸で映し出せる巨大なディスプレイがあれば可能だろう。地上から見ると太陽の見かけの大きさはとても小さいが実物はこんなに大きいんだよといって「実物大の太陽」を提示することは理論的には可能である。しかし、では「実物大の月」、あるいは「実物大の夕日」はどうか。
月もそうだが、夕日も、日によっていろいろな大きさに見える。天候次第で、また地平線の様相によって、山の端に途方もない大きさに見えることもあれば、荒海の沖の雲間に、線香花火の玉のようにあかくぽつんと見えることもある。「夕日」には、ほんとうの大きさというものはない。見かけしか存在せず、「実物の夕日」というものがそもそもない。太陽は実物がある。それは宇宙空間に存在し、その「大きさ」も精密に計測されているが、「夕日」というのはあくまでも、人間が地球上からある時間帯に見る太陽の像をさす言葉である。夕日とか朝日とかいう言葉は、あくまでも太陽を見る人間にとってのみ関係のある言葉で、宇宙空間で轟々と回転しながら燃え光っている実物の恒星ソルそのものにとっては何の意味もなさない。それは人間があるときある距離からある条件下において見る像のその見かけに与えられている名称にすぎない。私があるとき日本海の海辺を訪れて、その日の夕日を写真に撮って持ち帰ったものをスクリーンに投影するとする。そして、ちょうど海辺で見たのと似たようないい感じの「大きさ」に見えるようにしたいと考えるとする。それはいったいどうやるのか? 実際に私がその海辺で夕日を見た、その夕日がかかっていた水平線と、それを見ていた私との間を隔てる空間的な距離を、このスクリーンと私との間にどう再現しようか。距離が同じでなければ、見かけの大きさが同じようであってもそれは実物大ではないだろう。そもそも距離がわからなければ「実寸」を計測することもできないが、私が見た「夕日」と私との間の距離というものを考えること自体が本質的に困難である。私が「夕日を見た」と言うとき、それが例えば「さっきそこで○○さんを見た」と言うときそれが実物の○○さんを見たという意味であるのと同じく実物の夕日を見たという意味であるとしても、私が見たその「実物」の夕日というのが、そもそも私の目に映ったものとしてのそれでしかないからである。「水平線に浮かぶ夕日」は、そういうものが見える条件下にいた私が見たものをそう呼ぶのであって、「水平線に浮かぶ夕日」なる実物が実際に水平線に浮かんでいたわけではなく、ましてや、実物の太陽が水平線に浮かんでいたわけもない。見たものが「実物の夕日」であったとしてもそれはあくまでも夕日であって、つまり太陽の像であって、太陽ではない。像としての夕日が持つ、像としての情報の量と質とは、普通の意味で実物であるところの太陽という恒星が持つ情報の量とも質とも本質的に関係がない――関係はあるかもしれないが全くもってイコールではない。太陽には実体がある、しかし夕日に実体はない。私が見る夕日があるだけである。仮にどこかのスクリーンに投影された夕日が、私が見た「実物」のそれに対して「実物大」でありえたとして、そのときに「実物」とは何かといえば、私が海辺で太陽を見た、その太陽がそのとき私の目にその条件下で映った像、でしかなく、スクリーンに投影された夕日の投影像は、何かの実物大であるとしても、私の目が知覚した夕日の像に対して実物大であるにすぎないだろうし、またそれが実物大でありうるのは、その投影像そのものが私の目ないし脳裏に映る限りにおいてにすぎず、スクリーン上の見かけの大きさはこのことにやはり何の関係もない。私が見た夕日の像を、私の脳裏の外部へ、すなわちスクリーンなりディスプレイなりに「実物大」で投影することは、原理的に不可能である。
ある日の夕日をありのままにまざまざと見た、それは、太陽をありのままにまざまざと見た、というのとは全く違うことである。だがまた翻って、太陽をありのままに見る、とか、実物の太陽を見る、というのがどういうことなのかも実は了解しがたい。そのようなものは誰も見たことがない――ありのままに見たら目がつぶれるというごく即物的な理由、そして仮に目がつぶれずにすんだとしても、圧倒的な光に隠れて何も見ることができないだろうという理由によって。私が見ることができるのは、せいぜい、ある日のありのままの夕日のさまであり、ありのままの太陽ではない。あるいは、私が見ることができるのは太陽の光の部分的なありさまであり、太陽ではない。言い換えれば、太陽の光があるかたちで私の目に映るとき、そのある種の像を私は太陽と呼び、あるいは夕日と呼ぶのであって、私が夕日を見たと思うとき、私が見たものは私の目に映った太陽の像にすぎないが、にもかかわらず、私はその夕日のことを、太陽の像のことを、太陽、と呼ぶこともできる。実物の太陽は、しかしながらそのとき、夕日の像というかたちで私の網膜に投影されてしまっており、その像においては、夕日が存在するだけで、太陽は存在しない。同じことは、太陽でなくとも、あらゆるものについて、例えば一個の小さなランプについてさえも言える。私がこのランプを見ているとき、私が見ているランプの像が何かと比べて実物大でありうるとすれば、それはランプに対してではなく、私の目に映ったこのランプの像に対して実物大であるだけである。映像というのは根本的にそういうものである。
――というより、根本的にそのようであるものを、ここでは映像と呼ぶ。そこには「目に映った像」も含まれる。すなわち、いかなる形であれそれがそこに映っている限りにおいてしか存在しないもののことである。この定義によれば、印画紙に焼いた写真は、印画紙と感光材料でできた物体として実体を持って存在しているので、映像に含まれないが、デジタル化されてディスプレイ上に映っている写真は映像に含まれる。映画のフィルムは映像ではないが、映写機にかけてスクリーン上に映し出されたものは映像である。静止画・動画を問わず、そのようにして、どこかに「映って」いれば映像であり、映っていなければ映像ではない、すなわち、DVDやPCに格納されている映像データは、あくまでもデータであって、再生されない限り映像ではない。鏡に映っているのは映像であり、水面に映る影も映像であるが、それらを撮影して紙に焼いたものは映像ではない。映っている限り存在し、映らなくなれば存在しなくなるもののことを映像と呼ぶ。そしてそれらの映像の存在は、それを見る者においてある。水平線に浮かぶ夕日が、水平線上には存在せず私の目において存在するにすぎないのと同じように、あらゆる映像は、スクリーンやディスプレイ上にではなく、それを見る者において、それを見る者によって見られる限りにおいて存在するものと考える。そしてそのように考えたとき、あらゆる「映像」は、自分自身に対してしか「実物大」であることができない。