映像に魅入られることについて
映像とは、映っている限りにおいて存在するもののことである――そのような定義を採用していると、映像のそうした存在様態は、お化けのそれにたいへん似通っていると感じられる。お化けが存在するかどうかというのと、映像が存在するかどうかというのは、たぶん同じような議論なのだ。化けものというものは、出るものであるが、出ている、その限りにおいて化けものは存在する。出ていなければ、存在しない。そして、出ると、人にとりつく。映像は、映って、人の目に焼きつく。映像に魅了されるのと、化け物に魅入られるのは、根本的にどうも同じことのようであって、化け物にとりつかれて逃れられないのと、映像が脳裏に焼きついて離れないのは、似たようなものだ。ある映像が脳裏に焼きついて離れないというのは、なんだかわからないがその映像の出力が止まらなくなってしまうということであって、映像がそこにおいて表現しっぱなし、伝達されっぱなしという、非常に消耗する状態である。お化けにとりつかれた人においては、もうずっとお化けが出っぱなしという、それで衰弱して死んだりするので、そういう困ったときはどうするかというとお祓いをする。お祓いはどうやるかというと、古今東西、たいていの場合、言葉の力を借りる。呪文を唱える。お経を唱える。いわゆるコトダマというやつに頼ることになるのだが、なぜそこで言語が有効なのか――ある映像に魅入られて気になって気になってどうにも耐え難いときに、その映像について何か語ってみればどうにかなるかもしれないというような考えはいったいどこから出てくるものなのだろうか。
お祓いは、一方で必ずしも言語でなくてもいい、何か音声であればいいという様相も観察される。笑う、高らかに笑うことによって怨霊が退散するという話は、古事記の昔からある。歌でもいい。あるいは、今昔物語等にみるように平安時代からよくあるのは、鳴弦――弓弦を高らかに鳴らす、あるいは、ぶーん、という凄まじい音のする鏑矢を射ることで悪霊を祓う。太鼓とか、柏手を打つとか、ともかく音、音声によってお祓いができる。音声、あるいは言語、音楽。言語や音声によってお化けを祓うパターンはこうして種々あるけれども、映像でお化けを祓うというのはきいたことがない、なぜかというと、ふたたび、やはり、人間は映像を出力できないからだろう。お化けは知覚認識的 geistig な存在だから――ちなみにドイツ語では幽霊のことを Geist という、ポルターガイストのガイストである――対抗するにもやはり geistig なものごとをもって行うべきであるとすると、視覚的なものか聴覚的なものかどちらかになるが、両者のうち人間が出力できるのは普通は後者つまり音声だけであって、普通の意味では、視覚的なものは出力できない。平たくいえば、普通の人間には光線ワザは使えない。音ワザなら使える、それで音声、あるいは言語ということになる。音楽文化、言語文化というものが現在まあ存在していると言っていいだろうと思える所以で、人間がそのうち映像を出力できるようになって、映像でお化けを祓えるようになったら、そのときはじめて映像文化なるものが成立することになるだろう。塩を撒くとか、米を撒くとか、豆を撒くとか、そういうのはまた別の話なのだろうと思うが、ひょっとしたら、そういう白い粒粒したものを撒くのは実は映像出力の代替行為なのではないかと考えないでもない、つまり光を放射するかわりに白いものをざっと撒くのかもしれない。光はむろん特権的なものであって、現代では強烈な光を放つ道具を人類はすでに何かと持っているから、それであんまりお化けも出なくなったというのはよくきく話である。しかし、そうして暗闇が減りお化けが減ったかわりに、それら発光器具と相通じる原理とテクノロジーを使って無数のお化けを日々刻々みずから生産しているのだから世話はないわけで、人類とは実に度し難いものだ、そしてこれら新種のお化けに相対する手段としては相変わらず言語しかないらしい。
映像というものは、ふいに出現するものであるという点でもお化けに似ている。さあ見ようと思って見るときでさえ、見ているその瞬間瞬間に出現している、つまりみずから「表現」するというかたちで唐突に存在するものなのであって、見ようという気も別にないにも関わらず不意に見てしまうときはなおさらである。例えば講義の最中に、私が何か映そうと思いながら機材の扱いにもたもたしていれば、その間に結構いろいろなものが映ってしまう――PCのデスクトップとか、検索画面とか――書画カメラを使えば私の手とか、いろいろなものが映るだろう、それらに私はいちいち言及することはないし、いちいち見てもいない、だが受講者は、そうしたものをいちいち見るかもしれない。私がそれらを見ないときには、私においてそれらの映像はみずからを私に伝達したりはせず、みずから表現もしない、つまり私の目にうつらなければ、私にとっては存在しない、そのときその映像の「表現」と伝達、なかんずく存在は、そこでそれらの映像を誤って映し出したりしている私とはいっさい何のかかわりもなく、ひたすら、その映像とそれを見てしまった受講者の間でのみ成立する。その関係は、全く私の関知するところではないのである。私が知らない間に映ってしまった私の手の映像に、私が気づく前にたまたま気づいてしまった人がもしいたら、その人は、私の講義をきいている最中に、私自身全くその存在さえ知らずにいる映像と、独自に、しかも意図せずして、ひそかにしかしありありと関係をとりむすんでしまうわけなのだ。「今の……見た?」「え、なに?」「いま、映ってたよね、何か、そこに」「いや、知らないよ。気のせいじゃない?」「そんな! だって見たんだよ確かに! 黒い影みたいなものが、すうっと……それに何か赤いものが揺れて……」――と、そういうところにこそ映像なるものの最も本質的な現れかたが観察されるとも思われるので、私は機材の不具合や操作ミスが別に嫌いではない。