映像/画像/書画、定義をめぐる新しい混乱について
2000年ちょうど、ミレニアムの年にとある大学に着任して以来、「映像文化論」なる講義を担当してきた。この科目名は私がつけたものではなく、デフォルトの名称である。映像文化――そもそもそれは何か、そんなものが果たして本当にあると言えるのだろうか。
映像技術というものはむろんあり、2015年の現在時点でそれはもうすごいものだ。しかし技術と文化はイコールではない。文化とは何か。文はテクスチュアであり、文化とはテクスチュアライズすることでありまたテクスチュアライズされたものである、としよう。しかし別述するように映像というものは根本的に、それ自体みずからテクスチュアライズすることはできないし、それ自体においてテクスチュアライズされることもできない、その機能を持たない。そういう意味では映像とは徹頭徹尾野蛮なものであり、文化の対極にあって、その野蛮な映像をテクスチュアライズするのはテクスト、すなわち言語以外ではない。一般に映像文化と呼ばれているものは本質的には言語文化でしかありえまい。ここでいう「言語」とはひとえにいわゆる自然言語のことであるが、他方翻ってまた自然言語を用いた人間の活動の多くの領野が現代では映像を経由している、あるいはそれ自体が映像化している。ブラウザで閲覧するウェブサイトのページを映像と呼ぶのがふさわしいかどうかは、むろん映像という語の定義にかかってくることだが、ブラウン管なり液晶ディスプレイなりに映っている画面を等しなみに映像と呼んでいいなら、液晶ディスプレイで閲覧するウェブサイトのページはもちろん、電子ペーパーで読む電子書籍のページも、それがそこに映し出されているものであるからには、映像と呼んではならないと考える理由はないとも思える。「映像」とそうでないものはいったいどこが違うのか。映像媒体を考えるということは、非映像媒体を考えるということでもある。
例えばいま一般に「映像」というと、動画のことを指すようである。いわゆる写真、静止画像のことは「画像」と呼び、動画を「映像」と呼ぶというのがいつの頃からか定着したのだが、この分類の根拠は、字づらを見ただけでは判然としない。「映像」は「映っている像」であり、「画像」は「画かれた像」であって、この字の使い分けには、動くか動かないかという差異は本来まったく含まれていないはずである。この新しい分類の慣例化が意味するところは、動くか動かないかの差異に比べれば一枚の「画像」がもともと画かれた絵画であるのか撮影された「映像」つまり写真であるのかの差異などは、たいしたものではない、と考えられるようになってきたということであり、それは、「画かれたもの」すなわち絵画と「映るもの」すなわち本来の「映像」との間の差異よりも、動くか動かないかの差異のほうが「文化的に」より重要視されるようになってきたということであるようにも見える。しかし、この分類の変化は「文化的」というよりむしろ「技術的」な要因に基いているとおぼしいのであって、要するにコンピュータ上の処理技術と関係している。元が写真であれ絵画であれ、電子データ化してコンピュータで処理しようという際には何ら違いはなく、他方、動画と静止画の間には技術上大きな違いがあり、処理にも鑑賞にも基本的に異なるソフトが必要とされるという事情が、この分類の基盤になっているのである。そしてそうした事情を背景に持つこの分類が、コンピュータの外にまで波及して普遍化しつつあるという事態――若い学部学生に「映像」一般の定義を試みに訪ねるとまず「動画のこと」という答えが返ってくるという事態――が、映像文化なるものの現代の様態の一端を、そして「文化」は技術によって規定されるというしごく一般的な事実の鮮やかな一例を、如実に指し示していると言えるだろう。それが――映像文化が――主として展開する場は、もはや映画館やお茶の間や写真ギャラリーである以上に、インターネットに接続されたPCや種々のデバイスのディスプレイの上なのである。
とはいえ映画館やお茶の間や写真ギャラリーがなくなったわけでは全くなく、今のところそれら古典的な場と電子デバイスは大いに共存しており、かつ、仮にディスプレイ上で鑑賞されようともフィルムで作成された映画はフィルムで作成されたという歴史的事実に変わりはないから、「映像文化」ないし「映像」なるものを包括的に捉えようとするなら、上記の慣例的分類を安易に採用するわけにもいかない。しかしその一方で、この慣例的分類は、「映されたもの」と「画かれたもの」およびさらには「書かれたもの」の間の従来の区別を大いに揺るがして再考を促してくれる点で、極めて興味深くもある。
映像という語そのものはカメラのなかった昔から用いられてきた。「影像」と書かれることも多かった。影とは、光の謂でもあり、光によって落ちる陰影の謂でもあるから、影像とはすなわち光によって投影される像のことである。水にうつる影、目にうつる人の姿、あるいは記憶の中にうつる姿、ひいては肖像画まで含めて、映(影)像と呼ばれた。さまざまな形で映る、あるいは、写された影、それが指し示す「もとのもの」の「像=かたち」、それを影像と呼んだのである。しかしカメラが登場して、写真なるものが輸入されてからは、手で描いた肖像画を「映像=影像」と呼ぶ呼び方はおそらく次第に廃れたものとおぼしい。それでは、コンピュータが全面的に普及して上記のような分類が定着するまでは一体どのような定義で「映像」なる語が一般に用いられていたのかといえば、それは『広辞苑』をひいたところで判然とするわけでもなく、目下のところ私は明瞭に述べることができないのだが。
いわゆる「書画カメラ」なる機器がある。投影面にモノを置きさえすれば、平面だろうと立体だろうとレンズを通してスクリーンに拡大投影することができるたいへん便利な機械であるが、この名称は実のところ相当に奇妙である。確かに、レンズで知覚しているという意味ではカメラといえばカメラであり、投影するという機能はこの機器そのものについているわけではなく、プロジェクターに接続することで始めてものが project されるのであるから、これがプロジェクターではなくカメラと呼ばれること自体には特段の異議を唱える理由はないようではある。しかしながら、従来のスライド装置あるいは OHP はそれ自体が投影の機能を持っていて、これら投影機材の発展形として現在の書画カメラは開発されてきたものとおぼしく、そうした経緯からか、この種の機器は一昔前には――私が大学に着任して「映像文化論」を担当しはじめた当初は――何たることか「物体投影機」と呼ばれていた。プロジェクターの設置された教室がまだごくわずかだった頃である。この古めかしい呼称が当時普遍的なものであったのかどうかは定かでないが、少なくとも私は最初に教室の機器類の解説を受けたときに、「これが物体投影機です」と説明されて慄然としたのを覚えている。何とも恐るべきネーミング――あまりにも素直でヒネリがなく真直であるがゆえに過激に破壊的であるようなネーミング、物体投影機。なんとこの機械によって、物体が投影されてしまうらしい――あたかも、何の気なしに階段に腰かけていた人の肉体が、ピカドンの一発によって瞬時に消滅してしまい、腰かけていたその影だけがそのまま階段に焼きつけられて残ったように? しかしそんな震撼的な名称が与えられていたことがあった事実などまるきり拭い去られたかのように書画カメラなる穏健な名称が一般化して久しく、今や私自身、あんなゴツゴツした名称を耳にしたこと自体が妄想だったのではないかと思うほどである。書画カメラとは、書画、つまり、手で画いた/書いた、あるいは印刷した字や絵をオプティカルに知覚してくれる装置ということだが、それにしてもなぜ書画限定なのか。平面上に字ないし絵がかいてある、ということは、この装置そのもののオプティカルな知覚にとって特殊な必要条件では別にない。「カメラ」は単に何でもそこにあるものを知覚するだけであって、字だろうが絵だろうが立体物だろうがお構いなしに同じように知覚する。それなら「物体カメラ」でよさそうなものだが、それでは単に「カメラ」というのと(カメラも物体を写すものだから)区別がなくなってしまうからなのか、「書画カメラ」なる名称になったのは結局はおそらくもっぱら用途によるのであろう、字や画像が載っている平面を投影することで同時に大勢の閲覧に供するために使用する例が大半なのであるから。そしてここでも「画」という語には、絵画と写真が一緒くたに含まれている。
絵画であろうと写真であろうと書画カメラで投影すればそれは投影されているという意味で「映像」であるが、それらがコンピュータに取り込まれたならば一律に「画像」と呼ばれることになる。それが動画であれば、実写であろうとセルアニメであろうとCGであろうと「映像」と呼ばれ、その「映像」からキャプチャされた静止画は、やはり一律に「画像」と呼ばれる。「もとのもの」=被写体があろうがなかろうが、画像は画像、映像は映像である。「書画カメラ」の「画」とはこの「画像」のことであり、すなわち書画カメラとは静止画専用の投影機の謂に他ならず、「画かれたもの」と「写されたもの」あるいは「映るもの」という従来とても重要だったはずの区別を越えた大々的なジャンルの混淆がここにも反映しているのであって、この混淆は極めて新しいものである。そしてこの混淆は、狭い意味でしばしば語られるジャンルの混淆――映画やドラマにおける実写とアニメーションの混淆といったようないわゆる芸術ジャンルの混淆よりもはるかに根源的なところで生じているそれであって、ポストメディウムあるいはトランスメディウム等といわれる問題の根底にあるものごとはまさにこれであるだろう。
それでは書画カメラの「書」のほうはどうなのか。例えばこの文章がウェブサイトにアップされてブラウザなりアプリケーションなりを介してディスプレイ上で読まれるとき、これらの文字列は確かにそこに「映って」いる形で読まれるにも関わらず「映像」と呼ばれることは普通なく、動かないからといって「画像」と呼ばれることもなく、一般には「文字列」ないし「テクスト」と呼ばれるが、その間の事情はといえば再び、コンピュータ上において文字列の処理には画像処理とも動画処理とも異なるソフトウェアが用いられるからに他なるまい。しかしこの点についていえば、これもまたおそらくではあるが、「もとのもの」から書き写された文字ないし文字列のことを「影像」なり「像」なりと呼ぶことは、いかにそれが「写された」ものであろうとも、昔からなかっただろう。なぜなのかというのは、いわばグラマトロジックな大きな謎である。上記の「ジャンルの混淆」は、ここでは生じていないのだろうか?
同じこの文章を紙に書いて、あるいは印刷して、その紙を、書画カメラを用いてスクリーンに投影するとする。するとスクリーンに字が映る。字が映っていてそれが読めるという点では、書画カメラからプロジェクタを経由してスクリーンに映し出されたものと、ウェブページ上に表示されているものとは、ひとまず同じ様態を示しているとも見える。これらの文字列、あるいは、文字列が映し出されているところの画面は、果たして「映像」と呼べるのかどうか。書画カメラからスクリーンに投影されているのは「像」である、とこれは少なくとも疑いなく言うことができるだろう、ただし何の像かといえば、「疑いなく言える」のは、それが、何者かが作成した文字列が筆記あるいは印字された特定の一枚の紙の像である、ということだけである。それは果たして文字ないし文字列の像であるのかどうか。また他方、始めから電子データ処理によって作成されディスプレイに表示される文字は、果たして文字なのか、それとも文字の像なのか? これは言い換えれば、電子データを変換表示したところの文字というものが果たして文字なのか文字の representation なのかという問いだが、その問いは、そもそも手で書いた文字自体が何かの――例えば音声の―― representation であるのかという問いとパラレルな問いであるのかどうか。文字とは何か、文字言語とは、ひいては言語とは何なのかという古く難しい問いに、「映像文化」が投げかけるものはとても大きいのだ。