florae universales

 

 

「……むろん花は、庭や野から伐ってくれば、その後のほんの数日、長くても旬日あまりにその命を限ることになります、生きて咲いているものの命をあえて限っておいて、そうして活けるというのは、不埒なわざだと謗る者も多い、「死に首」などと呼ばれ、唾棄すべき頽廃だと難じられもします。花は野に置けなどという、それはもっともな考えではあるのですが、しかしそれを言うならば、花に限らず、鳥でも馬でも、また人でも同じこと、生きとし生けるものはすべて野に置けというのなら、人こそまず何より先んじて野に帰るべきでしょう、しかし今や、人がみな野山へ帰って草や木のように天然の生活をすることなどおよそ考えられもしない、そんなことをすれば人はむしろ人でなくなり、猿や兎と同様のものになるでしょう、人にとって「野に帰る」というのはそういうことを意味する、それは、人というものがこれまで何百年何千年もかけて営々といとなんできた営みのすべてを無に帰せしめることに他なりません……田畑を耕し、作物を育て、牛馬を飼い、また木を伐り土をこねて家をつくる、しかも能うかぎり居心地よく麗しく作りあげようとするなかで、あまたのものを野山や海川から採取して、ありたけの工夫とわざとを加えることで、採取したそれらのものどもとみずからとをともどもに活かそうとする、それがいつでも人の営みというもので、それなのに花だけは野に置けというのは、むしろたいへん身勝手な、花というものに特別に人が委ねようとする夢のような願いなのではないでしょうか、そうした身勝手な夢をそっととっておいたりすることもまた、人のいかにも人らしい振舞いではあるでしょうがね……花の命をあえて絶ち、絶ちながら活かそうとする立花とは、確かに、ひとつの倒錯には違いありません、古き平安朝の昔に大宮人が季節季節に桜や梅の枝を伐って飾って眺めたり、互いに贈りあったりしたのとは、意味あいがまるきり違っています、彼らはなにも桜や梅の枝を、庭や野にある以上に生き生きと活かそうなどと考えていたわけではないし、一掬の花を摘むことがその花の命を絶つことだいう事実に深く思いを致していたわけでもありません、ただ、綺麗だから、あわれだから、摘み、眺める。もののあわれは、花を摘むことにあったのではなく、花そのものにあった、野の花そのものが、本来はかないものとして彼らの前にあり、あまりにもはかないゆえ、伐ろうと摘もうと、そのはかなさを増すことも、また減じることもなかったのです。はかないもののあわれは、人の手を加えることでどうこうできるようなものではなかった。あのころ人は、今よりもはるかに無力なものだったのです。今でも無力は無力ですが、それでも、例えば衣食住どれをとっても、当時は今の比ではなく不自由で貧しかった、御堂関白であろうと帝であろうと、おそらく今のこの私よりもはるかに不自由で貧しかったでしょう。三百年かそこらの間に、人はこれでもずいぶんいろいろなことができるようになってきたのですよ。立花は、言ってみれば、かつての大宮人がただ涙して眺めることしかできなかったもののはかなさへの反逆です。花のはかなさに対して、あなあわれ、と嘆じるばかりではないもっと別のありかたはないのか、人の手を加えることで、はかなさではないもっと別の形の活き方を花に与えることはできないのか―そのために、あえて命を限るという暴虐に似た振舞いが必要だとしても? それはいかにも今のこの乱世にふさわしい試みのように思えます、そうお思いになりませんか?」


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