メランコリック庭園のつくりかた

 

 

(……)自然はこのような庭園のために、みずからの深い渓谷や低地、高い山々と断崖絶壁に挟まれた広い谷間、山地における隠れた人気のない僻地、鬱蒼として陽の届かぬ無人の地や暗き森を差し出すのだ。生気や楽し気な動きを告げるだけのものは何であろうと、この種の庭園には存在すべきではない。遠くまで広がる気持ちのよい、快活な光景、明るく心地よい緑におおわれた草地や丘、たくさんの輝ける花の咲く草地、開放的な広がりのある水面、こういうものはいかなるものであれ存在すべきではない。そのあたり一面に君臨すべきは秘匿性であり、孤絶性であり、暗さと静寂なのである。もし、このような快適な孤独に捧げられた区域に水があったならば、それは静かなまま停止しているか、または弱い、気づかれぬほどの流れでなくてはならないし、スゲが繁茂し、その下には枝の多い木々がその影で水面を暗くしていなくてはならない。または眼に見えぬところで空ろな物憂い水音を出すか、規則的な段地を流れ落ちるようにすべきであるが、どんな雑音もどよめきもあってはならない。そこに森そのものが必要となれば、光線を遮るためと影を増やすために森は暗い僻地にあり、ひとかたまりになった木々の群や、鬱蒼として先の見えぬいくつかの小さい林から成り立っていなくてはならない木々や潅木は密集し、さらに暗く物悲し気な葉をつけていなくてはならない。たとえば、トチノキ、ふつうのハンノキ、アメリカクロボダイジュ、ふつうのよくある黒い木、ゼイノキ、香油を出すポプラや同種の樹々がそれに適すものである。同様に、枝の垂れたシラカバ、とくに、その長い垂れ枝が地面にまで届くバビロンツタは、まるで過ぎ去った幸せを悼み、嘆くかのようである。それは格別にこの種の庭園にふさわしく、またとりわけ、その葉の生き生きした緑が他の暗緑色の葉をつけた樹々の影によりいくぶんか暗くなる場合はなおさらである。このような樹々の群れや林や森の暗闇や蔭の下にまさにメランコリックな庭園の曲がりくねった小径が延びており、いたるところに道は通じ、その小径によって散歩者は、あるときは暗く陰鬱な低地や下方の谷間へと導かれ、またあるときは頭上に迫る山々や絶壁の陰の下へ、または、周囲に茂る樹々の影で永遠の闇におおわれている物音ひとつ立てることのない水辺へ、または、周りを森で囲まれ、それによって淡い影で包まれている空地へ、ぎっしりと絡みあった樹々の垂れた枝で隠されたベンチへと、コケでおおわれ、歪み、かつ時間と雨風によって半ば崩壊しかかったカシの下の腰掛けへと、また、潅木でおおわれ、隠された滝の押し殺されたような音の響く荒涼たる岩山へと導かれていくのである。高く影の多い樹々と、その場所に潜む聖なる闇を増大させる樹々の間に密生した潅木にとり囲まれた長い歩道、古い修道院やゴシック様式の教会の円天井におおわれた通路にも似た歩道は、このような庭園にきわめてふさわしいものである。なぜならばそれは魂を重大な深い思索へとよび寄せるからである。この舞台の効果はその性格に応じた偶然性で、たとえば、数匹のカエルが単調な鳴き声やわめき声を立てたり、キジバトがメランコリックな訴えるような鳴き声を出したり、孤独な思索者のすぐそばでこの荒地に好んで棲むフクロウが飛び立ったりすることで増幅されるのである。そのひじょうによくあるすばらしい偶然性が起こるのは、月がその青白い光をその舞台にそそぎ、静かな夜がその闇ですべてを包むときである。そのとき、闇を脅かすものは月の弱い光でしかなく、その光は木の切り株の間からやっとここに射し込んでくる。静かにいいよどむように垂れ下がった、光の斑点がついた木の葉と道の線の向うに、空地の上に森の影が長い帯状に伸びている(……)

(C・C・L・ヒルシュフェルトによる庭園レシピ。ドミトリイ・S・リハチョフ
『庭園の詩学――ヨーロッパ、ロシア文化の意味論的分析』坂内知子訳、平凡社、1987より。
同書註釈によれば「『経営雑誌』一七八七年、第三一部、三‐六ページ。
P・ストルピャンスキイ『古きペテルブルグ 一八世紀のペテルブルグにおける造園と花栽培』
サンクト・ペテルブルグ、刊行年の表示なし、一二‐一三ページより引用」。
強調はサイト作成者による)

初出2009.11.21.     更新2016.05.15.

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