Melancholy Recycled
18世紀という画期において近代精神医学がどのように成立し、その過程でメランコリーなる概念がいかに次第に破却されていったか、その経緯については、内海健氏が『うつ病新時代――双極Ⅱ型障害という病』(勉誠出版、2006)の冒頭でわかりやすく完結にまとめておられるから、それを直接に参照するのが最上なのだが、とりいそぎ若干の引用をさせていただきながらごく簡潔におさらいをしておく。
一七世紀になると、脳神経系が精神を司る器官であり、精神障害の座であることは、すでに医学的常識となっていた。さらに一八世紀は、モルガーニ Morgani、ハラー Haller、ウィット Whytt、ガルバーニ Garvani らを輩出し、神経科学がにわかに発展した時期に当たる。だが、これと並行して、体液学説は病因を黒胆汁に置いたまま、その黒胆汁が影響を与え、メランコリー症状を起こさせる器官は脳である、と改訂された。それゆえ神経科学の隆盛も、体液学説にとってさほど大きなダメージにはならなかったのである。メランコリーの学説が決定的な転換点を迎えるには、やはりピネル Pinel(1745-1826) の登場を待たねばならなかった。
黒胆汁から近代精神医学への転換には、一八世紀の「感覚主義」(sensualism) 思想が強くあずかったと言われる。実際ピネルに影響を与えたのは、コンディアックの感覚主義的哲学であり、またロックに代表されるイギリス経験論であった。これらは彼自身の「経験的」あるいは「分析的」といわれる疾病分類の基底をなし、疾病観の中核となった。感覚主義は、自己や世界を知覚し、外界からの刺激に反応する器官として、神経系にきわめて高い位置を与える。その上で、感覚印象の直接的な刻印を受ける感情や悟性こそが、精神疾患の座であるとする。ここにいたってようやく、精神疾患はもはや体液を迂回する必要がなくなったのである。
ピネルは、メランコリーという病気の本質を、「「支配観念へのとらわれ」ないし「判断の誤り」であるとし」、強い感情的体験の刻印が「悟性の機能を偏倚させるように作用」するとした。
つまり、ピネルはメランコリーを黒胆汁から解放したのだが、それと同時に、「気分」と言う基底からも引き剥がしてしまった。それは、ただちにエスキロール Esquirol(1722-1840) によって修正を受けることになる。
エスキロールは、メランコリーを二つに解体した。一つは、おもに悲哀と抑うつを示すリペマニー lypémanie、今一つは、熱情を伴い限定された対象に向かう慢性の狂気であるモノマニー monomanieである。リペマニーは現代におけるうつ病の先駆けとなる概念である。ピネルと対照的に、エスキロールは気分の病を分離し、そこからメランコリーの持っていた狂気的な成分を排除したのだともいえよう。ここにおいて、豊穣だが概念規定の曖昧だったメランコリーの中から、もっぱら気分によって規定される疾患が取り出されたことになる。それはまた同時に、疾病用語としてのメランコリーからの決別でもあった。
こうして近代精神医学の発達につれて、メランコリーという「豊穣だが概念規定の曖昧だった」概念は、気分障害としての病的要素を抽出されたあとに医学用語としては捨てられた。つまり、土星の支配下にある黒胆汁属性という考え、その考えをジャンプ台にして「復権」されたところの高邁なるメランコリー、高度な精神的活動において世界を一望することすら可能としてくれる魔術的な力の根源としてのそれ、それがゆえに翻って挫折の奈落の底に人間を沈めてしまいもするところのそれ、つまりは、ラギッドな双極性を内包したクリエイティヴな精神活動とその源泉としてのメランコリー、それが捨てられたわけである。それと同時に、世界の魔術的変容というものが古来獲得していたポジティヴな側面もまた、関係性の把握における「判断の誤り」として捨てられた。そこでつまり医学が最終的に魔術から独立するに至ったのだと言うこともできるだろう。ピネルの主著『精神病に関する医学=哲学論』が出たのが1809年、ちょうど、崇高論 とピクチュアレスクが草の根文化として定着し、メランコリー庭園がイギリス、ロシア、アメリカその他その他でものすごい勢いで流行しはじめ、メランコリーというものがセンチメンタリズムとぴったり癒着しはじめた時期であった。ラギッドなもの、および魔術的なもの、そのポジティヴな価値は、医学において捨てられるのとほぼ時同じくして、文芸と絵画、そして造園をはじめとするさまざまなカルチャーフィールドにおいて、嬉々として拾われ、能うかぎり「豊穣に」リサイクル活用されたのである。